第86話 アイちゃんと火乃香
「――では御検討のほどお願い致します。改めて申し上げますが、弊社は倒産となりますので迅速な資産整理が求められております。そのため御回答は来週の金曜日までにお願い致します」
まるで台本を読むかの如く早口に言ってのけると、
とりあえず現在の状況を整理しつつ、これまでの経緯について順を追って話そう。
アイちゃんの所属する派遣会社が、急遽倒産することとなった。必然アイちゃんとの派遣契約も終了する運びとなる。それだけならまだしも、派遣会社は固定資産償却のため
長らく休院していた隣の小児科さんが近いうちに再開されて、ウチは更に忙しくなる。アイちゃんが居なければ仕事が回らないのは明らかだ。なによりアイちゃんが廃棄処分されるなんて、絶対に許されない。許せるわけがない。
そんな俺の想いを見透かすように、営業の女性は「
まるで物みたいな言い様は納得いかないけれど、ウチがアイちゃんを買い取れば廃棄処分は免れる。ウチで仕事も続けてもらえる。
だがその金額は1900万円。ウチみたいな個人経営の薬局に、そんな大金がプールされているはずもない。かといって1週間でそんな大金を用意できるはずもないし、金を借りようにも親父が借金をした時のトラウマがある。
そんな俺の気持ちを見透かすように、女性営業が今度は薬局の売却……他の大手調剤薬局チェーンへの
要するに、アイちゃんを買い戻したいならこの店を手放せということだ。
「ウチの従業員は、どうなりますか」
初めに浮かんだ疑問がそれだった。M&Aの場合、多くは受け入れ先の企業の社員となる。そんな話を何処かで聞いた。
「
だが現実は残酷だった。とどのつまり、薬剤師ではない俺や
受け入れ先は調剤薬局チェーン。だけど大手の店で男の医療事務なんて見た事がない。まだ高校生の火乃香も大手は雇ってくれないだろう。
大した資格もスキルも持たず、大学も出ていない俺が一般人と同じように働くことなんて、土台無理な話だったんだ。
それは他の企業でも言えること。新卒やキャリア持ちならまだしも、薬という狭い世界の自営職しか経験の無いアラサーを欲しがる職場なんて無い。
つまりこの店を売ったその瞬間、俺は無職になる可能性が高い。仕事が無くなれば、火乃香の未成年後見人も外されるだろう。
それだけは、絶対にダメだ。
かと言って店を売らなければ、アイちゃんは廃棄処分される。少なくとも二度と会う事は無い。まさに八方塞がりの状況だ……。
「ちょっと待ってよ。この薬局が無くなったら、どのみち
「その点は問題ございません。朝日向様ほどの経営手腕があれば、きっとまた事業を御立ち上げになる事が可能でしょうから」
何の根拠もなくヘラヘラと笑って語る女性営業に、泉希はギロリと鋭く睨み返す。その視線のせいか、女性営業は「御回答は来週の金曜日までにお願い致します」と吐き捨て、足早に店を後にした次第だ。
そうして静けさを取り戻した店内で、俺は待合室のベンチに呆然と座っていた。
『朝日向店長』
そんな俺にアイちゃんが声を掛けてきた。俺の隣に座る泉希も彼女を見上げて。
『今回の提案は受けるべきではありません』
「……どういうこと?」
『本来弊社に所属している私がお伝えすべき事ではありませんが、弊社は派遣薬剤師を雇い入れるほど切羽詰まった状況の店舗に無理難題を
私の下取り額は1000万円が良い所でしょう。しかし御社ほどの立地条件であれば、3000万円以上の価値が妥当と思われます』
「つまり羽鐘さんをダシにした、
『それは本当です。ですが計画倒産である可能性は高いと思われます。
「……どっちでもいいよ。このままじゃアイちゃんがウチから居なくなる。どころか廃棄処分……死ぬことになるんだろ。問題はそこだけだ」
どこか申し訳なさそうに語るアイちゃんに、俺は顔を伏せたまま
『お待ち下さい店長。恐れながら何度も申し上げている通り私はAIVISです。人間でも、まして生物でもありません。御社に設置されているPCや機材の機材も古くなれば処分し買い替える。それと同じことで――』
「同じじゃない!」
アイちゃんの声を断ち切るように俺は叫んだ。
「同じんかじゃないよ……アイちゃんは俺にとって大切な人だし、掛け替えのないウチの従業員だ」
掠れるような声を絞り出すと、店内はまた言い様のない静けさに包まれた。
今の俺に与えられた選択肢は、二つ。
アイちゃんを買い戻すためにこの薬局を手放し、無職となって火乃香と離れ離れになるか。
店舗を守るためアイちゃんとの別れを指を咥えて見送り、泉希に過度な仕事を強いるか。
どちらにせよ俺は……3人のうち誰かを見捨てることになる。
俺の大切な家族を……。
-------【TIPS:泉希の服薬指導メモ】-------
吸収合併とは企業同士が会社を一つに合同化する行為のことよ。でもウチのような個人事業は基本的に大手企業へ丸ごと飲み込まれる形になるわ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます