第85話 アイちゃんと売却

 「――2500万円……」

「はい。弊社の羽鐘はがねであれば、下取りとはいえその程度の市場価値があるかと」


当然のように言いながら、恰幅かっぷくの良い女性営業はたるんだ頬の肉を揺らし「ほほほ」と高笑いした。

 確かにアイちゃんは優秀だし可愛い。それくらいの価値があってもおかしくない。だけど2500万円なんて大金を、今の俺が簡単に用意できるはずもない。諦めるより手は無いのか……。


 「とはいえ御社は羽鐘を高く御好評頂いているようですし、私から上司に掛け合い1900万円まで減額するよう上申致しますわ」


けれど直後。そんな俺の考えを見透かしたよう女性営業は自ら譲歩した。1900万円になろうと高額である事実に変わりはない。だけど「それだけ値引があれば」という謎の隙が心に生まれた。

 とはいえ600万円という破格の割引を今この場で決めた訳ではないだろう。この減額はあらかじめ想定されているもので、希望価格は元より1900万円に違いない。

 そうと分かっているものの、一度緩んでしまった気持ちを締め直すのは難しい。それを証明するように、俺の頭には『ローン』の三文字が浮かんだ。


 「なお今回は資産整理ゆえの売却ですので、羽鐘を御買取り頂く場合は一括でのお支払いをお願い致します」


だが俺の考えは、見透かされたように一蹴される。考えてみれば倒産が決まっているのにローンも何も無いか。


 「これは私にとっても切な願いです。というのも羽鐘は御社に配属となって以来、時折人間のような振舞いをするようになりました。それも御社が羽鐘を御寵愛ごちょうあいくださった御陰おかげと感謝しております。

 ですがそのようなエラーがある状態では買い手が付きにくいというのが現実。もしこのままなら、羽鐘は廃棄処分となるでしょう」


まるで原稿を読むように流暢な女性の言葉が、消沈しかける俺の気持ちに再び抉じ開けた。同時、俺は全身の血が凍るような感覚に見舞われた。


「廃棄、って……」

「言葉の通りです。壊れた設備や機材と同様、羽鐘がスクラップにされるということです」


その声が意識に触れた刹那。俺の脳裏にはバラバラにされゴミの山に打ち捨てられるアイちゃんの姿がイメージされた。まるで殺人現場のような光景イメージ

 だが当たらずしも遠からずだろう。もし俺が彼女を諦め、他の企業も手を挙げなければアイちゃんは廃棄されるのだから。


 それはイコール、彼女の『死』に他ならない。


 俺の体は小刻みに震えて、全身に鳥肌が立った。

 寒い。まるで真冬のような感覚だ。にも関わらず噴き出す汗が止まらない。小刻みに震える体に比例して、脳みそは煮えたぎるほど熱を生む。


 銀行から融資をしてもらうか? いや、無理だ。薬剤師でもない俺では300万円が良い所だろう。なにより審査に時間が掛かる。


 オフクロに金を借りるか? それもダメだ。病気が治っていないというのに、これ以上余計な心労をかけたくない。下手をすれば症状が悪化する。


 消費者金融や知り合いに少しずつ借りる。それもアイデアの一つとして浮かんだ。けれどそれが……どうしようもなく恐ろしい。

 

 俺は親父の残した借金が原因で大学を辞める事になった。オフクロも親父の借金を返すために無理をして働き、難病を患った。火乃香ほのかのためだったとはいえ、親父の借金を返すため俺もオフクロも色んな物を失った。


 大学を辞めてから何度後悔したか分からない。

 友達とも疎遠になった。

 オフクロにも何度と八つ当たりされた。

 中退だからと昔の従業員から馬鹿にされた。

 恥ずかしくて他人ひととの関りをった。

 薬剤師でない自分を呪った。


 そんな負の感情が、俺を雁字搦がんじがらめに捉えて自由を奪う。借金をこさえれば、またあの思いをまた繰り返すことになる。考えただけでも動悸が止まらない。


 けれど俺がアイちゃんを買い取らなければ、彼女は廃棄処分になる。最悪それを免れても、次の所が彼女にとって幸福とも限らない。


 アイちゃんを助けたい。でも金が無い。

 アイちゃんと一緒に居たい。でも金が無い。

 アイちゃんを幸せにしたい。でも金が無い。


 相反する二つの思考が入り乱れて、俺は口を開くことさえ出来ずにただ項垂れた。そんな俺の姿を前に、女性営業はまたニヤリと不敵にほくそ笑む。


 「これは一つの提案なのですが……もしも金策にお悩みであれば、こちらの店舗を売りに出されるのは如何でしょう」


半ば呆ける頭と表情でもって、怪しげなその台詞に俺はゆっくりおもてを上げた。


「この店を……売る?」


虚ろに揺らぐ俺の視線の先で、女性は肥えた笑顔のまま頷いて応えた。




-------【TIPS:泉希の服薬指導メモ】-------


朝日向先生がこの薬局を立ち上げた時も銀行に融資をして貰ったそうよ。その時の先生は「全てを投げうつ覚悟で企業した」と言っていたらしいわ。

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