第74話 火乃香と泉希のお留守番①

 「――ねぇ、火乃香ほのかちゃん……その、お腹とか空いてない?」

「……空いてません」


義兄あにが出掛けて間もなく、泉希みずきさんは何かと声をかけてきた。でもそれが鬱陶しくて、わたしは逃げるように布団の中へ潜り込んだ。

 休日にも関わらず来てくれたのというのに、本当に失礼な態度だと思う。そんな事は分かっている。それでもわたしは言葉を交わしたくなかった。

 

 泉希さんは素敵な人だと思う。美人だし頭も良いし、薬剤師という立派な肩書きも持っている。


 その全てが彼女を嫌う理由だった。


 木漏れ日を受けてキラキラと輝き、透き通る清流のような人。それが泉希さんに対する第一印象。

 なのに、わたしはジメジメとした薄暗い洞窟の中で灯る小さな焚火。彼女とは正反対の存在。

 永遠と水をたたえ沢山の人達に癒しと潤いを与える彼女にかかれば、わたしの小っぽけな火なんて一瞬で消えてしまう。

 

 だからわたしは彼女に近付かない。義兄が褒めてくれたこの小さなきぼうを、消されたくないから。


 『明日、泉希が看病に来てくれるからな』


義兄からそう聞いた時、わたしは心底嫌がった。彼女が来るくらいなら一人で良いと言った。でも義兄は『火乃香に万一の事があったら嫌だ』と、私の訴えを退けた。


(看病に来るとか言っても、どうせ兄貴に良い所を見せたいだけなんでしょ)


泉希さんはそんな人じゃない。頭では理解していた。でもわたしは頑なに自分の心を誤魔化していた。それが妄想だと気付いていながら、頭から布団を被って知らないフリをしていた。


 「でも火乃香ちゃん、今日はまだ何も食べてないじゃない。薬も飲まないとだし、少しでいいから何か食べましょう。お粥なら喉を通るかしら」


いつの間に用意したのか、泉希さんは湯気立つ粥を盆に乗せて差し出した。


 そういえば、少し小腹が空いている。

 でもそれ以上に、無性に腹が立った。


 勝手にキッチンを使われたこともそうだが、義兄の茶碗で出したことが頭にきた。わたしは「大丈夫です」とぶっきら棒に告げて、また彼女から目を逸らした。


 「でも火乃香ちゃん、少しは何か口にしないと。薬だって今日はまだ――」

「いいから、もう放っといて下さい!」


下手に提案する泉希さんに、わたしは噛み付くような勢いでベッドから飛び起きた。


「なんなんですか! さっきから我が物顔で家の中うろついて、頼んでもないのに恩着せがましく! そもそも職場の上司の妹が風邪ひいたからって、家まで看病に来るとかおかしいでしょ!」

「そ、それは……」

「フン! どうせ『義兄に良い所みせて点数を稼ごう』とか考えてるんでしょ! ホントいい迷惑!」


口を吐いて出たその台詞は本心じゃなかった。ただこの完璧な女性に何か言ってやりたかった。悔しくて攻撃せずに居られなかった。


 「……ごめんなさい」


するとあろうことか。彼女は泣きそうな顔を浮かべお盆をテーブルに置くと、わたしに土下座をした。


 「貴女の言う通りです。貴女をダシに悠陽ゆうひと会う口実を作って、今日こちらへお邪魔したこと……心から謝罪します。本当に、ごめんなさい」


三つ指ついて深々と頭を下げる姿に、わたしは目を見開いて言葉を失くした。てっきり言い返してくるものとばかり思っていた。

 目を泳がせ狼狽うろたえるわたしを他所よそに、泉希さんはゆっくりと顔を上げる。


 「私が悠陽を……貴女のお義兄にいさんを好きなのは本当。だから貴女の体調不良にかこつけて、この家に来たのも事実よ」


チクリ、と見えない針が胸に刺さった。わたしは顔を背けながら心の中で「やっぱりね!」と叫ぶ。けれど痛快さは無い。どころかドキドキと心臓が脈打って、全身が軽く痺れた。


 「でも貴女が心配なのも本当よ。火乃香ちゃんは私と似てるから、どうしても放っておけないの」

「に……似てません、全然。わたしは薬剤師なんて立派な職業、一生掛かってもなれませんから。頭も育ちも良くないし」

「そんなことないわ。火乃香ちゃんは仕事の覚えも早いし若いのに本当にしっかりしてる。彼も毎日、自慢気に話してた。正直言うと、ちょっと嫉妬してるくらい」

「……だとしても、それだけじゃないですか。水城みずしろ先生はわたしなんかと違って、ちゃんとした家庭で育って、ちゃんとした教育を受けてきたんでしょ。わたしとは根本的に違います」

「ううん。少なくとも私は、火乃香ちゃんの気持ちが分かるわ」

「て……適当なこと言わないでください!」


その瞬間、感情がまるで発条バネみたく、弾ける声と変わって体の外に飛び出した。


「アナタに何が分かるって言うんですか! わたしのことなんて、わたしの人生なんて知りもしないくせに!」

「もちろん全部は分からない。けど、他の人よりは気持ちを共有できると思う」


炎のように感情を燃やすわたしに反して、泉希さんは細波さざなみのような声を紡ぐ。


 「私も、学生の時に親を亡くしてるから」

「……え」


わたしの体から飛び出した感情は、行く宛てもなく宙を舞い何処かに消えた。空っぽの身体からは瞬く間に熱が引いていく。


 「物心付いた頃から父親は居なくて、母と二人の家庭だった。母は水商売……夜の仕事をしていて、記憶にある姿はお酒を飲んでばかり。もちろん家にお金は無かったから、高校はバイトばかり。おかげで友達なんて一人も居なかった」


眉根を寄せて苦笑いを浮かべる泉希さんに、わたしは何も答えられなかった。ただただ意外で、驚く以外の感情が失われた。


 「そういうワケだから、火乃香ちゃんの気持ちは少なからず分かるつもり。だからこそ力になりたいし、助けになればって思うの」


どこか照れ臭そうに言いながら微笑む泉希さんに、わたしはまた何も言えず視線を伏せる。だけど泉希さんは、膝を付けて押し黙るわたしの手を包み込むように優しく握ってくれた。


 「それに、あんなおバカを好きになった変わり者同士だから。私たち」


冗談ぽく言いながら、泉希さんは頬を桜色に染めて笑いかけてくれた。


 なぜだろう。


 わたしの目から熱い水が溢れて、握り交わした手の上にポタリと落ちた。




-------【TIPS:泉希の服薬指導メモ】-------


薬学部に在籍していた時、昼は学校で勉強しながら夜キャバクラで働いて学費を稼いでいると噂の子が居たわ。並大抵の覚悟では出来ないことよ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る