第71話 あー……犬に耳元フガフガされたい 

 「――いや~、悪いねぇ、悠陽ゆうひ~」

「……いえ別に」


総合病院の受付で、飄々と笑うオフクロに反して俺は仏頂面を決め込んでいた。

 結論から言うとオフクロは元気だった。

 もちろん相変わらずの難病持ちだが、今回の入院は単に経過観察のための検査入院らしい。


「ちゅーか、検査入院なんやったら俺が来る必要もあらへんやろ」

「そんなことないよー。アンタにキキちゃんの面倒見てもらわな。あの子、寂びしん坊やから、丸一日もお留守番とか出来へんし」


文句を垂れながらオフクロは携帯電話を俺の目の前に突き付けた。画面にはゆるふわカットのミルクティ色したトイプードルが。まったく、天使のような可愛らしさだ。なぜ俺が家を出た後に飼い出したのか、本当にオフクロを恨めしく思う。


「ゆーても、俺も暇やないんやけど」

「今日日曜日やん。休みなのに忙しいん?」

「そらーなー」


つっけんどんに答えながら、俺は病室まで付き添いオフクロの鞄を置いた。一日二日の検査入院で個室をチョイスするなよな……。


 「そういえばアンタ、今お父さんの再婚相手の子と一緒に住んでるんよね」

「ああ。火乃香ほのかな」

「そうその子。まだ高校生なんやろ」

「せやな」

「可愛いん?」

「可愛いで。目に入れてもいたないわ」

「……アンタ、頼むからその子に手ぇ出したりせんといてよ。アタシ嫌やで、刑務所に差し入れしたりすんの」

「……せぇへんわい」


裸で言い寄られても鋼の意志で拒んだ事実を滔々たんたんと語ってやりたい。でもそんなことを口にすれば、火乃香の人格が疑われかねないからな。

 ぐっと喉の奥で声を押し殺し、引き止めようとするオフクロを振り切って俺は病院を後にした。

 それからアパートではなく実家の方へ戻った俺は、オフクロの愛犬・キキちゃんの世話をした。

 二人で散歩に行きご飯をあげて、彼女が落ち着くまで一緒にソファで転がった。

 人懐っこく甘えてくるキキちゃんと過ごす時間はまさに至福。永遠に続いてほしいとさえ思う。だが一方で、胸の奥には一抹の不安が渦を巻いていた。


 というのも、今この瞬間。アパートでは火乃香が体調を崩して寝込んでいるのだ。


 医療機関というのは病原菌の温床のようなもの。入職から間もない新人は皆それにやられてしまう。

 もちろん俺は火乃香の看病をするつもりだった。けれどそんな矢先に、オフクロから「入院する」と電話を受けてしまった次第である。まさか検査入院とは思わなかったけど。


 「わたしは大丈夫だから、兄貴はお母さんの所に行ってあげてよ」


冷蔵庫にゼリーや栄養ドリンクを仕舞う俺に、顔を赤くして寝込む火乃香が掠れる声で言った。

 ただの風邪と分かっていても、やはり心配だ。いっその追加の派遣料金を支払い、アイちゃんに火乃香の看病をお願いしようかと考えた……が。


 「私に任せて!」


あろうことか泉希みずきが買って出てくれた。たしかに薬剤師の泉希なら、安心して火乃香を預けられる。けれど……。


「良いのか泉希。火乃香、お前に失礼な態度とったりしてただろ」

「そんなの全然気にしてないわよ。同じ職場の仲間を放っておけないじゃない」

「泉希……」

「それに、今のうちに仲良くしておかないと、一緒に暮らすことになった時にも困ることになるし」

「なんで一緒に暮らすんだ?」

「え、な……なんでもない!」


まるで泉希も風邪を引いたみたく、頬を赤く染めて背中を向けた。

 そうして翌日。約束通り泉希は俺の家に来てくれた。折角の休日だというのに本当に申し訳ない。


「じゃあ行ってくる。冷蔵庫の中の物とか好きに食べてくれていいから」

「分かった。お義母さんに宜しく伝えておいて」

「りょーかい」


玄関先で俺を見送る泉希の隣で、火乃香は不機嫌そうに片頬を膨らませていた。


「泉希の言う事きいて、大人しく寝てるんだぞ」


膨らんだ頬を指先でつつくと、恨めしそうにジトリと睨み返される。


「そんな顔するなよ。今日の夜には帰るから」


検査入院と言っても比較的簡単なものだし、今日は前泊みたいな感じらしいからな。対して俺に与えられた任務は中々にハードだ。


①午前中に実家にいるへ行き、オフクロの車で病院まで送り届ける。

②実家に戻りキキちゃんを連れてアパートに戻る。

③一晩キキちゃんを預かり、翌朝実家へキキちゃんを送り届けて病院の駐車場に車を置いてから、俺はその足で出勤する。


火乃香の体調が万全なら俺だけ実家に泊まることも出来たのだが……現状で考え得る限り、この手順が最善だろう。

 おかげで明日は5時起き確定だけど。

 唯一の救いは、キキちゃんが素直で賢いレディという点。吠えたり騒いだりは滅多にないようだし、ウチにいる間も大人しくしてくれるはずだ。


「まったく、火乃香もキキちゃんくらい素直だったら良いのにな」


助手席でお利口に座っているキキちゃんの頭を撫でると、彼女は嬉しそうに目を細めて尻尾を振った。運転中も飛び付いてきたりしないあたり、彼女の賢さが伺える。

 そうしてキキちゃんとのドライブデートを楽しみ、俺はアパートに戻った。なお車は近くのコインパーキングに停めている。


「ただいまー」


キキちゃんを抱いたまま玄関へ足を踏み入れると、部屋の奥からドタバタと足音が響いた。何事かと思いながらキキちゃんを床に下ろした、その直後。

 

 「お帰りなさい、お義兄ちゃん!」


普段より数オクターブ高い明るい声で、火乃香が飛び掛かるように抱きついてきた。


 「お義兄ちゃん居なくて、火乃香寂しかった!」


まるで留守番をしていた子犬みたく飛びつき頬擦りをしてくる義妹に、俺は訳が分からず間抜けな表情を浮かべる他に無かった。


 そんな俺の足元では、キキちゃんが不思議そうに首を傾げている。




-------【TIPS:泉希の服薬指導メモ】-------


調剤薬局だけに限らず、初めて医療機関で働く人の多くは体調を崩すわ。軽い風邪の症状だから、1日2日も安静にしていれば治るわよ。

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