第69話 朝日向火乃香(炎)②

 『――なんだか頼りない、スケベそうな男だ』


最初に義兄あにを見た時、わたしの頭に浮かんだ台詞。

 息子だけあって確かに朝日向あさひなさんの面影がある。だけど真面目な朝日向さんと違って、どことなく女好きの印象を受けた。

 見た目だけの話じゃない。なにせ義兄が経営しているという薬局には、すごく綺麗で頭の良さそうな薬剤師が居たから。

 おまけにグラビアアイドルみたいに美人な薬剤師もやって来た。『きっとコイツは綺麗な女を部下に雇うスケベな男なんだ』と、そう思った。


(朝日向さんとは、違うんだ……)


諦め混じりにわたしは心の中で呟いた。

 だけどその邪推は、その日の内に覆された。あの時食べたラーメンの味を、わたしは生涯決して忘れはしないだろう。

 

 とはいえ何の見返りも無く、出会ったばかりの他人の後見人になるはずが無い。きっとあの男は身体が目当てでわたしの後見人になると言ったのだ。

 どうせ行く宛も無いし、行った先がここより良い場所とも限らない。


 わたしは、朝日向あさひな悠陽ゆうひに抱かれる覚悟を決めた。


 どうせわたしには母の焚き火になるくらいの価値しか無いのだ。処女だろうとファーストキスだろうと好きにくれてやる。


 家に招かれたわたしは、生まれて初めて、男の前で服を脱いだ。


 けれど義兄はわたしに手を出さなかった。どころか朝日向さんみたく本気でわたしを叱ってくれた。

 その言葉が、表情が、朝日向さんと過ごしていた日々を想起させた。


 押し殺していた感情が一気に溢れ出して、気付けばわたしは義兄との共同生活を始めていた。


 最初は義兄の事が信じられなかった。

 だけど言葉を過ごすたび、同じ食卓を囲むたび、義兄に対する印象が少しずつ変わっていった。

 まるで固く閉ざされていたつぼみが、暖かい春の日差しを受けて花開くかのよう。


 薄暗く冷めきった洞穴の中で、母を照らし温めるためだけに存在した小さな炎。それだけが火乃香わたしという人間。その存在理由。

 自分から発する熱と光しか知らず、役目を終えれば消えていくだけの松明たいまつ

 何も見えない、何も無い狭い世界に閉じ籠もっていたわたしは、朝日向悠陽という太陽に世界の広さを教えてもらった。

 わたしの小っぽけな熱や光は、朝日向悠陽という太陽の前では取るに足らないものだった。


 憧れ、尊敬した。

 嫉妬し、嫌悪した。

 渇望し、羨望した。

 

 わたしの中にあるすべての感情が義兄を目指し、意識のベクトルが朝日向悠陽へと向けられた。

 彼のようになりたい。あの光に近づきたい。あの熱と同じエネルギーが欲しい……そんなことを思うようになった。


 そんなある日のこと。わたしは近くの公園に捨てられている子猫を見つけた。

 けどこれ以上義兄に迷惑は掛けられない。連れて帰ることは出来なかった。かといって見捨てることも出来ない。わたしは中途半端に世話の真似事をしていた。


 数日後、大雨が降った。

 わたしは食事の準備も放り出して書き置きの一つもせず、わたしは子猫たちの元へ向かった。どうして良いか分からず、結局わたしはただ子猫を腕に抱いて温めることしか出来なかった。


 「こんな時、あの人ならどうするだろう……」


そんなことばかり考えて、自分では何一つ動こうとせず子猫を抱いたままベンチに座り込んだ。

 黒い雨雲がかかる空の下。冷たい雨に打たれ途方に暮れるわたしを、ずぶ濡れの義兄が必死の様相で迎えに来てくれた。


 「火乃香は優しいな」


怒られると思った。けれど義兄は、連れ帰った子猫の体を拭きながら笑顔で言った。


 「別に、なにも優しくないし」

「優しいよ。こんな雨の中、名前も知らないヤツの為に一緒に居てやるなんて出来ることじゃない」

「別に。それしか出来なかっただけだし。わたしは兄貴みたいな行動力とかないから」


つっけんどんに答えながら、わたしは義兄に背中を向けた。予想外の言葉に、どんな顔をして良いのか分からなかった。


 「わたしは兄貴みたいに誰かを照らしてあげる事なんて出来ないから。太陽みたいに明るくて誰かに元気を与えられる兄貴と違って、わたしはローソクみたいに小っぽけな火だから」


まだ生乾きの猫を抱いて、わたしは背中越しに義兄へ答えた。そんな後ろ向きなわたしの頭を、義兄は優しく撫でてくれた。


 「確かに火乃香はローソクみたいな灯火かもしれない。だけどローソクは太陽の光が届かない場所を照らしてくれる。暗闇の中を照らしてくれる。陽の光みたく、無作為に誰かを傷付けたりしない」


 瞬間、わたしの中の何かが変わった。まるで火が弾けたように胸の奥が熱くなる。

 振り返ると、本当に太陽と思うような明るい笑顔がわたしに向けられていた。


 「火乃香って名前は、暗がりに居る誰かを助けてやることのできる。そんな素敵な名前だと思う」


そう言って、義兄はその温かく大きな手で、わたしの髪を撫で続けてくれた。


 何も言えなかった。


 辛かったからじゃない。まるで義兄の手から熱を分けてもらったかのようで胸の奥が苦しくなった。

 同時に、わたしの中に在る小っぽけなローソクに小さな火が灯った気がした。


 瞬間わたしは気付いた。『火乃香』という名前の本当の意味を。


 今まで感じたことのない胸の高鳴りがわたしの中で鼓動を始めて、気付けば義兄のことを……1人の男性として好きになっていた。


 淡く儚く、ほのかに苦くて甘酸っぱい香り。


 火乃香わたしの、生まれて初めての恋だった。




-------【TIPS:泉希の服薬指導メモ】-------


昔の薬学部は女性が多かったけれど、今の男女比は半々くらいね。おかげで学部内のカップル率は高いけれど、別れた後の事を考えないのかしら?

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