第68話 朝日向火乃香(炎)①

 生まれた時から、わたしは闇の中に居た。


 暗く狭いジメジメとした洞窟。陽の光も届かない暗澹あんなんの中で小さな火を灯し続ける。


 それが火乃香わたしという人間。


 『幸せ』とか『愛情』なんて言葉、自分には縁のないものだと思っていた。他所よその国の戦争や飢饉に現実味を持たないのと同じ。

 少なくとも小学校に上がった頃には、自分が周りの子と違う存在だと気付いた。


 ある日のことだった。学校で自分の名前の意味や由来を調べる授業があった。私は母に『火乃香ほのか』と名付けた意味を尋ねた。


 『アンタがお腹に居た時、今よりもっと金が無かったからさ。電気代も払えなくて暗くて寒くて仕方なかったんよ。だからアンタは早くお金稼げるようになってアタシらのこと温めてほしかった』


臆面も無く母はそう言った。

 意味が分からなかったわたしは、母の言葉をそのまま発表した。その時の先生の引きった表情は今でも忘れられない。

 他の同級生達は『家系』や『こんな人物になれるように』という理想、『字画』や『験担げんかつぎ』なんかを考えて名付けられていた。

 どれも名前の持ち主……つまり名前を付けられた子供の未来を想ってのもの。

 けれどウチの親は違った。考えているのは自分のことだけだった。自分が楽になりたいから、救われたいから、現状から脱却したいから。そんな願いをわたしの名前に込めていた。


 その日、わたしは知った。自分は母を照らす為に生まれてきたのだと。


 ムシャクシャした時は、焚火に砂を掛けるみたくわたしで憂さ晴らしをする。

 シングルマザーであることを利用して男からあわれみと同情を買う。

 そうして引っ掛けた男を連れ込むため、わたしに家事を全部をやらせて自分は綺麗な部屋で男と体を重ねる。


 それがわたしの知る『親』の像だった。


 母いわく男性は神のような存在で、自分に生の実感を与えてくれるそうだ。身体を重ねている時だけ、覚束おぼつかない自分の存在を認識できるのだとか。


 そうして数年が経ってわたしが小学校高学年生になった頃。留守番が出来るようになり、母との時間が極端に減った。

 代わりに一人の時間が多くなった。

 私に手が掛からなくなった分、母は男と逢引する時間を増やしていた。


 食費は貰っていた。でも定期的じゃなかった。

 たまに机の上にお金が置かれていて、それを生活に必要な物にあてていた。


 お小遣いなんてものは無かった。新品の服を着たことも無かった。男に媚びれば自分も母みたく綺麗な服が着れるのか。そんな風に思う日もあった。


 もちろん、やらなかったけど。


 そんな生活が何年か続いたある日。わたしが中学2年生になって間もなくの頃。

 

 『今日からアンタのお父さんになる人よ』


そう言って、母は白髪交じりの60歳近い男性を家に連れてきた。

 

 『これからはアンタの名前は「朝日向あさひな火乃香ほのか」になるからね』

 

そう言われた。

 わたしはすぐに受け入れた。母が男を連れ込む事には慣れていたし、自分の名前なんて心底どうでも良かったから。


 所詮しょせんわたしは、母の焚き火に過ぎないのだから。


 ただ『結婚なんて絶対しない』と言っていた母が籍を入れたのには、少し驚いた。

 聞けば相手の朝日向さんは、ウチの借金を代わりに払ってくれたそうだ。

 なるほど、そういうことか。

 まだ30歳の母が、自分の父親と変わらない年齢の男性と結婚するなんておかしいと思った。事実今まで家に連れ込んだ男は、皆20代30代と若かった。

 金目当ての結婚なのだろう。そう思った。

 だけど朝日向さんも決してお金持ちという訳ではなかった。働いてはいたけど、母と結婚したことで前の仕事を辞めていた。二人は職場で知り合ったそうだ。不倫からの結婚が露呈することに抵抗があったのだろう。

 朝日向さんはパートで働いた。一時は無くなった借金はまた少しずつ増えた。生活がギリギリなのは変わり無かった。

 でも、朝日向さんは善い人だった。


 『僕のことは好きに呼んでね。「お父さん」とか気を遣わなくていいから』


と、むしろ朝日向さんがわたしに気を遣っていた。

 今まで母の連れてきた男は皆、わたしに対して不自然に馴れ馴れしくするか、空気のように扱うかの2択だった。だから朝日向さんの距離感がわたしは好きだった。


 朝日向さんはわたしを気遣い、色々と配慮をしてくれた。こっちが申し訳なくなるくらいに。だけど狭いボロアパートだ。どんなに注意しても偶然はある。

 わたしがお風呂から上がった時、運悪く朝日向さんが帰ってきたのだ。裸を見た事を朝日向さんは何度も頭を下げて謝った。


 「別にいいです。見られて減るものじゃないし、わたしには何の価値も無いから」


その途端、朝日向さんは『火乃香ちゃん!』と声を荒らげた。


 『女の子がそんなことを言うものじゃない。君の心も体も、お母さんがくれた君の宝物なんだから。もっと自分を大事にしてほしい』


悲しそうな顔で説教する朝日向さんに、わたしは何と答えて良いか分からずその場から逃げた。

 わたしは近くの公園で一人、呆然と声も出さずにベンチに座っていた。

 悲しみなのか怒りなのかは分からない感情が胸に渦を巻いていた。

 朝日向さんを憎む気持ちは微塵も無かった。ただ初めての経験に、わたしの心が追いついていなかった。

 

 家に帰ったわたしを朝日向さんは泣きそうな顔で心配し迎えてくれた。だけど母は相変わらず酒を飲んで、『子供じゃないんだから、放っとけば帰ってくる』と無関心だった。

 そんなも母も、2年の歳月を経るに連れて少しずつ変わっていった。声と性格が明るくなって、以前より笑うようになった。

 これも朝日向さんの影響だろう。

 もしかすると、いつかわたしも普通の家族みたいな生活が出来るのだろうか。そんな似合わないことを想像していた矢先。


 旅先で二人が亡くなった。


 遅ればせの新婚旅行だった。わたしの高校受験が終わるまで旅行に行くのを見計らっていたらしい。


 涙は、出なかった。


 当然だ。所詮わたしは小さな焚き火なのだから。揺らめくだけのただの炎は、流す涙なんて持ち合わせてない。


 それから間もなく、わたしは朝日向さんの息子の朝日向あさひな悠陽ゆうひと出会うことになった。


 その日、わたしはただの炎でなくなった。


 兄貴との出会いが、この『火乃香』という名前の本当の意味を教えてくれたから。




-------【TIPS:泉希の服薬指導メモ】-------


地域にも依るけれど母子家庭や生活保護の患者様も割といらっしゃるわ。生活保護の方にはブランド物のバッグや車を持っていたりする方もいるわ。

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