第64話 だからって暴力もダメですけどね
「――
「……殴った」
項垂れたまま火乃香は答えた。同時に、俺は全身の血が抜け落ちるような感覚に見舞われる。
まさか火乃香が人を殴るなんて。「裏切られた」とか「信じられない」なんて言葉では到底表せられない。ただただ消失感と絶望が俺を包み込む。
「見ろ! 人を嘘つき呼ばわりしやがって!」
店長と名乗る眼鏡の男はここぞとばかりに声を荒らげた。よほど昂奮しているのか、少しだけ声が上擦り震えている。
「本当どういう教育してんだ! 人の顔殴るとかマジありえねぇし! 自分がもし同じことされた時の気持ちとか考えてみろよな!」
畳み掛けるような言葉の嵐に、火乃香は否定も弁明もせず黙って聞き入っていた。
何故だろう。火乃香が暴力を振るったという事実が全く入ってこない。俯く彼女の姿が、俺には何かを堪えているように見えた。
「火乃香……もう一度聞くぞ。本当に殴ったのか」
「……うん。あの人の顔、平手で殴った」
視線を下げたまま火乃香は答えた。平手というとビンタか。「殴った」と言うから、てっきり拳でいったのかと思った。いやビンタでもダメだけど。
「なんでそんなことしたんだ?」
「それは――」
「う、うるせェ! 今そんなこと関係ねェだろ! ビンタだろうと暴行はボーコーなんだよ!」
火乃香の言葉を断ち切るように男が怒鳴った。乱暴な振る舞いに、俺の中の違和感が一層と増した。
「な、なんだよその面はよ……いいからサッサと謝罪しろよ謝ざ――」
「謝らなくていい」
今度は火乃香が男の言葉を止めた。意表を突かれた男は、ヒュッと言葉を飲み込む。
「確かにビンタはした。けどそれはこの人がしつこく『呑み行こう』って誘ってきたから」
「そ、それは……が、頑張ってる店員を労おうとしただけで……」
「未成年だって言っても聞かなかったのに?」
火乃香は顔を上げて男を睨んだ。ギクリという擬音が聞こえそうなほど、男は明らかに尻込みする。
「それだけじゃない。誘いながら何度もわたしの肩とか腰とか触ってきた」
「あ、それは……」
「わたし、今までずっと我慢してた。でも今日はそれ以上だったから……怖くなって思わず手が出た」
バツが悪そうに視線を伏せ、火乃香は消えてしまいそうなほど細い声で告げた。
それと同時、俺は腹の奥底から驚きとも怒りともつかない感情が湧き上がってくるのを感じた。
ゆっくりと振り返り男を睨み据えれば、男は眼鏡をズラし大きく肩を震わせる。
「う、嘘だ! 全部デタラメだ! 本当は仕事で俺に注意された腹いせに、そんなデマカセ言ってんだソイツは!」
「でまかせ?」
「そうだ! つかマジ女はいいよな! 痴漢とかも女がちょっとワーキャー言えばエンザイでも実刑になるだろ! そもそもそいつ学校を辞めてんだろ。そんな教育もマトモに受けてないような女が――」
――ドゴォンッ!
けたたましい轟音と共に、目の前のテーブルが真二つに割れた。俺の拳が、テーブルを穿だれたから。
薄汚れたテーブルは木片を散らし、バキバキと音を伴い崩れ落ちる。
男も火乃香も唖然と口を開いている。けれど俺は構うことなく、男の胸ぐらを強引に掴んで寄せた。
「火乃香は俺の義妹だ! だけどコイツは俺なんかと違って真っすぐな正直者だ! 俺との約束を守って面接でも一切嘘を言わなかった!」
「ひっ……!」
「そのせいでお前みたいな男が居るこんなクソみてぇな店に来ちまったんだ! それでも火乃香は愚痴の一つも言わずに頑張ってた! そんな火乃香を、俺の
男の体を放り投げるよう勢いよく突き放した。男はヨタヨタと
「けっ……けど俺、顔、痛かったし……」
「なら今から俺がその痛み上書きしてやる。火乃香のビンタなんて忘れるくらい、顔の原型が無くなるまでな」
骨が軋むほど拳を握り込めば、赤く擦り切れた部分から血が滲んで滴り落ちる。
小刻みに震える拳を前に、店長の男は大量の汗を浮かべ
「ちょ、ちょ待っ……あ、そ、そうだ証拠!」
「あぁ!?」
「え、あ、その……しょ、しょ証拠はあんのかよ、証拠は! 俺がセクハラしてたっていう証拠!」
言われて俺はわずかに拳を降ろした。火乃香が嘘を吐いているとは思わないが、確かに証拠はない。俺が無理矢理に言質を取ることも出来るが、それではこの男と大して変わらない。
「な……無いだろ証拠! 無いよな! けどお前らの暴力行為とキブツハソンは、その防犯カメラがしっかり録画してっかンな! 警察に行って、お前ら兄妹のやったこと全部バラしてやる!」
震える指先で男は俺の後ろ示した。見れば真新しい防犯カメラが吊り下げられている。まるで『ここにありますよ』と言わんばかりの存在感だ。
「こ、こ、これでわかったろ! け、けど俺も鬼じゃないからな! 殴られた慰謝料と治療費と、机の修理費……300万で許してやらァ!」
形勢逆転とばかり、男はニヤリと不快な笑みを浮かべた。対して俺は反論の糸口を見出せず押し黙ってしまう。男は勝利を確信したのだろう、半歩前に出て嘗め回すようにほくそ笑んだ。
「あるよ、証拠なら」
けれど火乃香の放ったその一言が、男の顔を再び引き攣らせた。
-------【TIPS:泉希の服薬指導メモ】-------
調剤薬局は基本的に立ち仕事だから体力も必要よ。整形外科が処方元だと重たい湿布薬を運んだり、中には経口液の薬もあるから。
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