第52話 少しだけ、塩っぱかった
空になったグラスを置いて、俺はテーブルの上のピッチャーに手を伸ばした。
「本当、つくづくこの世界が嫌になるよ」
グラスに水を注ぎ、
「だけどそんな世界で、それでも真っ直ぐに生きている君を俺は尊敬する。少なくとも君は、俺なんかよりよっぽど清らかだ」
「なにそれ。わたしのこと何も知らない癖に、よくそんな見え見えの嘘が言えんね。気持ち悪」
「嘘じゃねーよ」
「でも、わたしとはついさっき会ったばっかじゃん。そんなアンタが、わたしの何を分かるの」
「分かるよ」
「だからどうして!」
「さっきのお釣りとレシート」
笑って即答すると、朝日向火乃香は訝し気に眉根を寄せた。
「キミが本当に悪い人間なら、そもそも釣銭なんか返さないだろ。どころか金持って帰ればいいのに、電気も点けず待っててくれた。あれは鍵を掛けずに帰るのは悪いと思ったからだ。
少なくとも俺はそれを知ってる。他の誰がなんと言おうと、俺はキミを信じるよ。今だって俺のワガママに付き合ってくれてるしな」
ニッと歯を見せ笑顔を向けると、少女は唇尖らせて不機嫌そうに顔を逸らした。心なしか白い頬が赤らんでいる。
「お待たせしましたー。醤油お二つですー」
ほかほかの湯気を立ち上らせ、ラーメンが目の前に運ばれてきた。美味そうな香りと見た目に、腹の虫が騒ぎだす。
「あー、腹減った。いただきまーすっ」
「……いただきます」
「ふー、ふー」と息を吹きかけ勢いよく麺を啜る。コクの深い魚介出汁がさっぱりとした醤油と絡み、奥深い味わいとハーモニーを醸している。えも言われぬ多幸感が、舌先から全身を満たしていった。
そんな俺の姿に、朝日向火乃香も恐る恐るスープを口に運んだ。
すると直後、彼女は大きく目を見開いて驚きを表す。声にならない声で叫びながら、
「美味いだろ」
「う、うんっ。こんなの初めて食べた」
「ふふんっ」
自分が作ったわけでも無いのに、俺は然も得意げな様子を
だがそんな俺を尻目に、朝日向火乃香は一心不乱にラーメンを食べ進めていく。そんな彼女に反して俺は箸を持つ手を止めた。
「未成年後見人、だっけか。昼に言ってた保護者の代理みたいなヤツ」
「え……うん」
「良ければ、俺を選んでくれないか」
瞬間、朝日向火乃香の箸がピタリと止まった。動画の一時停止みたく固まった。と思いきや、彼女は箸を置いてギロリと俺を睨みつける。
「なにそれ、同情ってヤツ? それとも偽善?」
「違うとは言えない。キミを可哀想だと思ったのは本当だ。でもそれ以上に、俺がそうしたいと思ったから」
「意味わかんない。そんなん絶対ウソじゃん。さっき会ったばっかなのに」
「どうだろうな。ただ一つ確かなのは、この店のチャーシューが絶品というコトだ」
言いながら俺は自分のチャーシューを一枚、彼女の器に乗せた。
「あ、ありがと」
「どーいたしまして」
器の中に増えたチャーシューを、朝日向火乃香はチビリと一口齧った。じっくりと味わうように咀嚼して、コクリと細い喉を鳴らす。
「……美味しい」
「そうだろ。ここのは肉厚で美味いんだ。同情や偽善なんかでは絶対にやらん。コレやるのは、本当に食ってほしいと思う相手だけだ」
ズルズルと音を立てて麺を啜れば、朝日向火乃香もちゅるちゅると食べ進んでいく。だが何度目かに箸を持ち上げた時、彼女の手が止まった。
「なんで……そんな風に優しくしてくれるの」
「さあな。お前が俺の義妹だからじゃないか?」
「理由になってない!」
バンッ! と勢いよく机を叩きながら朝日向火乃香は声を荒らげた。
周りの客が俺たちに視線を浴びせられる中、俺は「ふむ」と一息吐いて箸を置き、厳しい表情の彼女を見つめ返した。
「俺は一人っ子だったからさ、兄妹ってのに憧れてたんだよ。それに親父はあんなんだし、オフクロは俺が子供の頃から仕事ばっかでさ、家族って感じ全然なくてさ……だから今日俺に妹が居たって知って、驚いたのと同じくらい、嬉しかった。それも、キミみたいに可愛いくて優しい子だったから尚のことな」
それだけ言うと俺は再び箸を手に取り、少し冷めたスープを一口だけ飲んだ。
「……バカみたい。カッコつけて。すごくダサい。あと今のセクハラだから。マジでキモいんだけど」
「はっはっは! 流石にウチの従業員でもそこまでは言わん! ちょっと新鮮だな」
「……嫌味で言ってるのに、ちょっとは怒れよ」
「その言葉が本心じゃないって分かってるからな。それに、こんな事くらいで怒ってたら保護者をやるなんて言えんわ」
「……バカ。ホント意味分かんない」
視線を合わす事なく悪態を吐いて、朝日向火乃香はまたラーメンを食べ進めた。
だけど麺を啜る音は次第に小さくなって、「グスグス」と鼻を啜る音に変わってしまう。
見れば切れ長の大きな瞳から溢れる涙が、ポタリとラーメンの中に落ちていった。
朝日向火乃香はカーディガンの袖で、擦るように涙を拭った。だが次から次へと涙は溢れて、彼女の手を止めてしまう。
「麺、伸びるぞ」
「うるさい! 誰のせいだと思ってんのよ!」
「俺のせいかよ」
「決まってんでしょ! こんな顔じゃ、もう電車乗れないし! 責任取ってよね!」
「仕方ないな。泣き虫な
ハンカチを差し出すと、朝日向火乃香は涙を拭って勢いよく鼻を噛んだ。
「……タオルも、アタシ用のやつ買って」
「あいよ」
「あと、このお店にもにもまた連れてきて。今度はもっとちゃんと、食べたいから」
「もちろん、何度でも」
ズズズ……と鼻を啜りながら朝日向火乃香は大きく頷いて答えた。そうして再びラーメンを食べ始める。だけど麺を数本だけ啜るとまた手を止めて涙を拭った。
そんな彼女の食べかけたラーメンに手を伸ばせば、確かに少しだけ
けどその味も、俺は嫌いじゃなかった。
-------【TIPS:泉希の服薬指導メモ】-------
調剤薬局事務ではレセコンと呼ばれる専門のPCを用いるの。だから薬局勤めの人はエクセルやワードと言ったオフィスソフトが苦手な人も多いわ!
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