第51話 ラーメンが好きです。でも、お蕎麦の方がもっと好きです。

 「――お、おい?!」


電気も点けない暗闇の中で、膝を抱えたまま微動だにしない朝日向あさひな火乃香ほのか。その姿を前に、俺の脳裏には『死』の一文字が浮かぶ。

 全身に鳥肌が立ち、流れる血が凍り付くかのよう。靴を脱ぎ捨て部屋に上がると、俺は蹲る彼女の前に膝を付けた。


「おい、しっかりしろ! おい!」


華奢な肩を掴んで出来るだけ身体を動かさず、白い頬をペチペチと指先で叩く。


 「ん……んんっ……」


すると羽音のようにか細い声が、少女の薄い唇から漏れ出た。眉をひそめて瞼を擦り、朝日向火乃香は虚ろ気に目を開く。


「良かった~、生きてたか」

「なに言ってんの。当たり前でしょ。寝てただけなんだから」


安堵の息を吐いて脱力する俺を前に、朝日向火乃香は呆れた声で小さく欠伸あくびする。


「バカ! こんな暗がりで地べたに座りこんでたら誰だって焦るわ! 寝るにしても机に突っ伏すなり電気点けるなりしろよ! 心配するだろ!」

「だって、電気代もったいないし。それに昔から家ではこうしてたから、この体勢のが慣れてる」


つまらなそうに、けれど当然のように朝日向火乃香は言い放つ。袖口から指先を覗かせ伸びをすると、紺色のスカートを翻して立ち上がった。


 「それと、これ」


スカートのポケットをまさぐると、彼女はレシートと小銭を差し出した。


「ああ、昼飯代のお釣りか。結構余ってる……って言うか、ほとんど残ってるじゃねーか。買ったのもオニギリ一個とお茶だけで。これだけじゃあ、全然足りないだろ」

「それでいい。昔から、いつもそんなだし」

「でも、腹減ってるだろ?」

「別に。それも慣れてる」


決して俺と視線を合わせようとせず、朝日向火乃香は淡々と答えた。そんな彼女の言葉が、俺の心臓をギリリと締め上げる。


 「なあ」

「なに」

「ラーメン、好きか?」

「なんで」

「いいから」

「別に。食べられれば何でもいいし」

「じゃあ、嫌いではないんだな」

「よく分かんない。あんまり食べたことないから。カップ麺なら時々食べてたけど」


被虐でも卑下でもない言葉に、俺の胸はまたズキリと痛んだ。だがそれを悟らせないよう、俺は必死に笑顔を作ってみせる。


「じゃあ、今から食いに行かないか。近くに醤油系の美味い店があるんだよ。そこのチャーシューが、これまた絶品でな」

「別にいい。そんなにお腹空いてない」

「俺が空いてるんだよ。仕事、今日が忙しくてさ。まだ話も聞きたいし、長いこと待たせたお詫びだ」

「……そういうことなら」


少しだけ戸惑いつつも、朝日向火乃香は俯き気味に答えた。

 俺は事務所の奥にある部屋へ入ると、急いで白衣を着替え朝日向火乃香と共に事務所を後にする。


 俺と彼女は薬局へ一度戻り、泉希みずきとアイちゃんに閉店と施錠を頼んだ。アイちゃんは二つ返事で了承してくれたけど、泉希は複雑な面持ちで何か言いたげだった。

 そんな泉希の視線を背中に感じながら、俺たちは近所のラーメン屋へと向かった。

 二人掛けの小さなテーブルに向かい合って座り、薄いメニューを向けて火乃香に何が良いか尋ねる。けれど彼女はろくに見ようともせず「一番安いのでいい」とだけ答えて詰まらなそうに頬杖をついた。

 仕方がないので、この店一番のオススメメニューと思っている醤油ラーメンを二つ注文した。

 

「いま、高校生だっけ」

「そう」

「何年生?」

「1年」

「部活とかはやってるの?」

「してない」

「バイトは?」

「少しだけ。でも、こないだクビになった」

解雇クビって、どうして?」

「担当していたレジのお金が合わなくて、わたしが盗んだことにされたから」

「『されたから』ってことは、実際には盗ってないんだろ」

「うん」

「じゃあ、どうしてそれでクビになるんだよ」

「だって、誰も信じてくれないから」


水のグラスを傾けて、朝日向火乃香は浮かぶ氷を見つめながら呟いた。


 「小学校の時からそうだった。生活保護で一人親だからって、何か無くなったら全部わたしのせいにされた。『違う』って言っても誰も話すら聞いてくれない。だからもう説明するのも面倒臭くなった」


過去を想起するように言うと、朝日向火乃香はグラスの水をチビリと口に含んだ。

 

「……ま、人間なんてそんなモンだよな」


そんな彼女に呼応するみたく、俺もグラスのお冷を飲みながら答える。その俺の言葉が意外だったか、少女はチラと俺を見た。


 「マジメに優しく正直に生きたって、周りと少し違うだけで敵視されちまう。なのに嘘ばっか吐いて他人を虚仮にするような人間が、持てはやされて偉そうに高笑いしてやがる。

 こんな嘘で塗り固められたような世界で生きてると、時々肥溜めに浸かってるような気分になるよ。いっそ死んじまいたいって思う日もある」


薄く苦笑いを浮かべる俺に反して、朝日向火乃香はポカンと驚いた風に小さく口を開いて。


 「……アンタみたいな人でも、そう思うんだ」

「そりゃ俺だって人間だからな」

「でも薬屋なんでしょ。白衣着て仕事する人間て、普通そういうこと言わなくない?」

「そんなことねーよ。むしろ医療関係の方が普通の会社より人間関係ドロドロしてて、嘘や誤魔化しも多いんじゃねーかな。他の仕事とか知らんけど」


「けっけっけ」と悪ぶった笑い声を漏らしながら、俺はまたグラスの水を傾けた。

 水は空っぽになった。けれど残された溶けかけの氷が、カランと心地よい音色を響かせる。




-------【TIPS:泉希の服薬指導メモ】-------

医療に従事する人は、大学を卒業して現場に入ってから精神を病んで休職する人も多いわ。健康や命を預かるというのは、それほどに繊細なの。

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