第82話 そこは、もうお前の指定席だろうが

 『初めてのキスはレモンの味だ』


 そんな都市伝説を子供の頃に聞いた。

 だけど初めて交わしたキスは、レモンの味なんてまるでしなかった。ただの幻想だと分かった。

 だからアイちゃんとキスをした所で何も感じないはずだ。そう思ったけど、俺の舌先と脳内には雷のような衝撃が駆け巡っている。

 麻薬のようなその刺激に思考と行動は奪われて、数瞬か数刻か、俺は暫くの間アイちゃんと唇を重ねていた。

 そうしてスッ……と静かに彼女が離れると同時、揺蕩う俺の意識は現実へと引き戻された。


「ア、アイちゃん!? いったいなにして……」

『申し訳ありません。何故か今の朝日向店長を見ていると、無性に口付けをしたくなりました』


恥ずかしさと焦りに後退りする俺を、アイちゃんは四つん這いで追随する。まるで袋小路に追い詰められたネズミが如くジリジリとにじり寄って。


  ――ポコンッ!


だがその時、俺の後頭部に何かが当たった。見ればレジャーシートの上にプラスチック製のタンブラーが転がっている。


「だ……誰だよ! こんなモン投げたのは!」


折角の雰囲気を打ち壊してくれて、ありがたいやら腹が立つやら、俺は眉間に皺を寄せて振り返った。

 見ればそこに居たのは、ハンチング帽を被りサングラスを掛ける泉希みずきだった。


「み、泉希!? お前こんな所で何して――」

「それはこっちの台詞よ、このスカタン!」


慌てふためく俺に反して、泉希はズカズカと近付きシートの上に膝を付けた。


 「私という者がありながら、どうして羽鐘さんとキスしてるのよこの浮気者!」


顔を真っ赤に染め上げながら、両頬をリスのように膨らませ、泉希は憤りを露にする。というか、何を言っているんだコイツは。明らかにいつもと違う。

 それに怒っているとしても、顔が赤すぎる。目は虚ろ気で体もフラフラだ。


 「泉希さん、お酒飲んで酔っぱらってる」


答えを示したのは火乃香だった。泉希が現れた場所の木陰から、呆れとも怒りともつかない複雑な様相で出てきた。

 

「火乃香、お前まで……」

「昨日泉希さんに一緒に行こうって誘われた。こんな事になると思わなかったけど」


眉尻を下げて答えながら、火乃香は四つの手をつく泉希を見遣った。よく見れば先程のタンブラーにも自然公園のロゴと名前が印字されている。


 「貴方が此処でデートするって言うから、火乃香ちゃんと二人でショッピングモールに買い物へ来たっていう建前でずっと尾行してたの!」

「泉希さん……」


俺が言及するまでも無く泉希はペラペラと自白していく。犯罪者が皆こうだと警察も楽だろうな。


「だからって、なんで酒飲んでるんだよ」

「うるひゃいうるしゃい! 私だってお腹空いたんだもん! なのに貴方は寝ちゃうし、向こうの広場でビールのイベントやってるし!」


両手を子供みたいにバタバタさせて、泉希は俺の胸に勢いよくダイブしてきた。


「大丈夫か、お前」

「うるひゃい、バカ悠陽ゆうひ! なんでいつも他の女とイチャイチャしてるのよ!」

「いや、イチャイチャだなんて……」


否定しようと思ったが、先程の光景はイチャイチャしているようにしか見えないな。口を閉ざす俺に、泉希は一層と頬を膨らませフラストレーションを増していく。


 「ふぇーん! アホ! 浮気者! 銭ゲバのセクハラ大魔王! パワハラ店長!」


罵詈雑言を宣いながら、泉希は太鼓のように俺の胸を叩きだした。そんな彼女の乱撃を避ける事も防ぐ事も出来ず、俺はされるがまま受け入れる。

 すると今度は俺の体をサバ折りのように強く抱きしめて、ミシミシと背骨を痛めつけてくる。


「ご、ごめんアイちゃん。ちょっと売店まで行って水買ってきて……」

『承知いたしました』

「あ、わたし売店の場所知ってるから一緒に行く」


財布を渡すとアイちゃんと火乃香は小走りで売店へ向かった。するとその途端、泉希は俺の腰に回した手を緩めた。


 「ごめんなさい、デートの邪魔して……」

「お、正気に戻ったか」

「ずっと正気よぉ! 私わぁ!」


喚き声と共に泉希はまた俺の胸板を殴りつけた。今の泉希のどこが正気なんだ。誰がどう見ても酔っ払いだろうが。

 いい加減面倒になった俺は、泉希のサングラスとハンチング帽子を外すと、強引に彼女の腕を引いて隣に座らせた。


 「な……なによ急に」

「いーから、ちょっと大人しくしてろ」


フラフラと揺れる泉希の体を抱き寄せ、肩をピタリと密着させる。そうして憤りを宥める意味で、彼女の柔らかい髪を撫でいた。


 「……ん。それ、気持ちいい」

「さよか」

「なんか私……いっつも空回りして全然思うようにいかなくて、カッコ悪い」


さっきまでの勢いはどこに消えたのか、俯きながら泉希は俺の服をきゅっと握った。見れば、大きな瞳から涙が流れ落ちて、


 「羽鐘さんみたいに自分に正直になれたら、私も貴方の隣に居られるのかな……」


白い肌を伝うその涙を指先で掬うように拭いながら言うと、泉希はズズズと勢いよく鼻を啜った。


「何わけの分からんこと言ってんだアホ。俺の隣そこは、もうお前の指定席だろうが」


ポンポンと頭を撫で叩くと、泉希は驚いた様子で顔を見上げる。


「俺が今こうしていられるのも、全部お前がずっと隣に居てくれたからだ。最初から俺の隣には、お前以外に誰も入れねーよ」

「そ、そんなこと言って、本当は羽鐘さんのことが好きなんでしょ! さっきもそう言ってたの聞いてたんだから!」

「ああ。アイちゃんのことは好きだよ。大好きだ。だけどは、お前だけの場所だから」


長い髪を撫でながら、俺は泉希の肩を抱き寄せ頬を付けた。それに呼応するように、彼女もまた俺に体を預けてくる。


 「……バカ。スケコマシ。おっぱい星人」

「はいはい」


ぐずった子供をあやすように泉希の長い髪を撫でていると、いつしか鼻を啜る音が止んだ。覗き込んで見れば、泉希は俺の肩にもたれかかったままスヤスヤと寝息を立てている。

 まるで憑き物が取れたみたく心地良さそうな寝顔に俺は思わず……キスをしそうになった。




-------【TIPS:泉希の服薬指導メモ】-------


初めてのキスはレモン味っていうフレーズは、昭和の頃の歌謡曲が大元っていう説が多いわ。科学的にも証明できそうな気はするけれど。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る