第1話 親父が蒸発しましてん

 ――大学合格を目指し奮闘した4度目の春。俺の桜はようやく咲いた。

 第一志望ではなかったけど、俺の受かった薬学部には気の合うヤツや浪人上がりも多く、それなりの大学生活を送っていた。そんなある日のこと。


 家に帰ると、親父が蒸発していた。


 もぬけからの空となっていた親父の部屋には、オフクロ宛ての封筒がひとつ置かれていた。中には離婚届と一通の手紙。要約すると、他所よそに女が出来たので別れてほしいとのこと。さぞかし悩むだろうと思いきや、オフクロはすぐさま離婚届に判を押して翌日には役所へ届けていた。


 オフクロは強かった。


 薬剤師のオフクロは、俺が小学生の頃にこの調剤薬局を立ち上げた。元から働き者だったけど、親父が蒸発してからは一層と仕事に打ち込むようになった。

 だが離婚から数カ月が経ったある時。オフクロは突然と倒れた。過労による免疫系のやまいだった。

 幸いと命に別状無かった。けれど、それ以上仕事を続けるのは難しかった。そんな大病をわずらうまでオフクロが働いていたのも、親父がいつの間にか借金をこさえ、あまつさえ全額を残していったからだ。


 オフクロは家と病院を往復するだけの生活となり、仕事はおろか出社さえも難しい状態に陥った。このままでは薬局かいしゃは倒産。従業員も路頭に迷ってしまう。

 1年間の休学を経た後、大学もバイトも辞めて俺はオフクロの代わりに薬局事業の運営を引き継いだ。


 当時25歳。桜の舞う季節だった。


 そうして俺が薬局に勤め始めて丸2年が経過した現在。必死に働いた甲斐あって、親父の作った借金はなんとか全額返済できた。

 

 おかげで従業員は全員辞めてしまった。

 

 よほど俺が気に入らなかったのだろう。薬剤師も事務員も、ことごとく悪態を吐き捨て俺の前から居なくなっていった。

 かくして学歴も青春も失った俺に残されたのはオフクロから受継いだこの薬局みせと、たった一人の若い女性薬剤師だけだった――



 ◇◇◇



 「――はあぁ~っ……」

 

大きな溜め息を吐いて、俺は薬局みせの受付に突っ伏した。


 俺の名前は朝日向あさひな悠陽ゆうひ。この【朝日向あさひな調剤薬局】で店長を務めている。今年28歳になる寂しい独身男だ。


 突然だが今この薬局は経営の危機に瀕している。

 従業員がほとんど辞めてしまい、圧倒的に人手が足りていないからだ。

 事務員も薬剤師も足りていないが、特に薬剤師が問題だ。処方箋の薬を作り患者様に薬の説明をする薬剤師が居なければ、調剤薬局は成り立たない。

 なんとしても薬剤師を見つけなければならないのだが、求人募集を出して3カ月が経とうというのに未だ応募が『0』という最悪の状況だ。


「あ〜〜あ、美人で巨乳で真面目に仕事してくれるナイスバディな薬剤師が応募してねぇかな~」


誰も居ない待合室を見つめながら頬杖付いて、俺は気だるげに呟いた。


 「なに馬鹿なこと言ってるのよ」


受付デスクで背中を丸める俺の背後から呆れたような声が聞こえた。振り返れば、白衣の美(少)女が眉尻吊り上げ立っている。


「なんだよ泉希みずき。なんか用か」


後ろ手に括られた背中まで伸びる茶けた髪。滝のようにストンと落ちるスレンダーな体躯。氷のごとく冷たい眼で睨む彼女の名は水城みずしろ泉希みずき。現在ウチの薬局で唯一の薬剤師であり、唯一の従業員だ。

 

 「仕事中は名前で呼ばないでって、いつも言ってるでしょ」


唐突と俺の耳たぶを摘まむや、泉希は思い切り両側に引っ張った。


「痛でででででっ! なにその物理的かつ懐古的なパワーハラスメント! 一周回って逆に新しい!」


涙目で叫べば泉希は「フンッ」と鼻を鳴らし、漸くと俺の可愛い耳たぶを解放した。


「痛ってぇなあ! 俺が恵比須様みたいな福耳になったらどーしてくれるんだ!」

「お金持ちになれて良いじゃない」

「はっ、確かに! もっとやってくれたまへ!」


冗談交じりに頭を差し出しせば、泉希はゴミを見るような侮蔑の視線を返した。

 整った鼻筋に、目尻の吊り上がった双眸そうぼう。胸はアレだがかなりの美人だ。おかげでコイツの睨みは凄味がある。

 俺のほうが一つ年上だし、そもそも俺はこの薬局の店長だ。けれど泉希にだけは頭が上がらない。


 なぜなら俺は、薬剤師じゃないから。


 もし泉希にまで辞められたら、それこそ店を畳む他に無い。言ってみれば、今この薬局は彼女一人で支えているようなものだ。


 「というか貴方、どうしていつもいつも私のこと名前で呼ぶのよ」

「えーやん別に。苗字も名前も同じ『みずき』なんだから」

「違うわよ! 私の苗字は水城みずしろ! 『みずき』とは読まないの!」

「どっちでも良いだろ。水城みずしろより泉希みずきの方が呼びやすいし。それに呼び方を言うなら、お前も俺のことは『店長』とか『朝日向あさひなさん』とか呼ぶべきだろ」

「嫌よ、絶対」

「なんでやねん」

「だってそんな呼び方、貴方を目上の人間と認めてるみたいじゃない」

「一応お前さんの雇い主ですが!?」

「大丈夫よ、私はそんな風に思ってないから。そんなことより、貴方さっきから何を見てるのよ」

「ああ、これだよ」


俺が椅子ごと体を引けば、泉希は俺の肩に手を置いて体ごと画面に顔を近づけた。俺のことを毛ほども敬ってないせいか、妙に距離感が近いんだよな。


 「これって、ウチが出してる求人広告?」

「ああ。その管理者ページ」

「こんなもの画面越しに睨んでたって、応募が来るわけじゃないでしょう」

「うるせーな。念を送ってんだよ念を。それに俺はお前のことが心配なんだよ」

「私のこと?」

「ああ。お前が倒れるようなことがあったらこの店も終わりだからか。早いとこ新しい薬剤師を雇ってリスクを減らしたいんだよ」

「なによそれ。結局私じゃなくて、店の心配をしてるだけじゃない」


ワントーン低い声で冷ややかに、泉希は腕組みしてぷくりと片頬を膨らませる。そんな彼女の姿に、俺は今日何度目かの溜息を漏らした。


「なに言ってんだよお馬鹿ちゃんめ。俺にとって、お前は一番大切な存在だよ」

「いっ……一番大切って、どういう意味?」

「決まってるだろ。いいか泉希、俺は――」

「え、ちょっ、悠陽ゆうひ!?」


俺はおもむろに椅子から立ち上がり泉希の華奢な肩に両手を置いた。

 頬を桜色に染めて声を上擦らせる泉希は、ギュッと固くまぶたを降ろす。


 そんな彼女の赤らむ顔へ、俺はそっと静かに口元を寄せた。




-------【TIPS:泉希の服薬指導メモ】-------


店舗薬剤師の業務は色々あるけれど、メインはお薬の調剤と服薬指導ね。簡単に言うと調剤はお薬を準備することで、服薬指導はお薬の説明よ。

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