沈んでいく楽譜と演奏者

紫鳥コウ

沈んでいく楽譜と演奏者

 だれかの「わたし」を呼ぶ声が、弾けたシンバルのぐわんぐわんとした震動のように、胸の奥からこみあげてきた。陽を見つけた花のように、誘われるがままにゆっくりと眼をさました。

 風が窓から吹き抜けていった。カーテンがふわりとまいあがった。音符がシールのようにめくれていき、そのぶん軽くなった五本の線も、ぺらりとはがれて、青い夜の空が見える窓の外へと飛んでいった。

 まっさらな紙だけが残った。表面をなぞってみても、なんの音も聞こえてこなかった。この楽譜では、彼女は満足していないということだ。

 赤い陽が向こうに見える窓から、ゆらゆらと一枚の手紙が舞いこんできた。それに眼を通してから、むかし届いてきた別の手紙と見比べたり、浮かんできたアイデアをメモしたりしていると、気づかないうちに自分が二の腕をもんでいることに気づいた。窓を閉めた。もう、月夜をうつした湖しか見えなくなっていた。

 紅色の絨毯じゅうたんのうえに仰向けになりながら、作っている曲のことを考えてみた。だんだんとそれさえもわずらわしくなってきて、身体をくの字に折った。半ば閉じかかった目は、うっすらと積もったホコリをとらえた。じっとそれを見ているうちに、呼吸をすることがいやになってきた。しなくてもいい咳をしてみた。額に手を当ててみた。ひんやりとしていた。ずっと右手でおさえつけていると、眼の奥に氷の塊があるように感じてきて、不安になった。

 パチッという短い音が部屋の中を走った。わたしは消え去ってしまったのだろうか。そう思えてしまうほどに、光というものがどこにも感じられない暗やみのなかに放りこまれてしまった。この暗転には、いまだに慣れない。


 窓を開けると一面の湖が広がっている。さざなみを立てることなく、ぴったり水を張ったまま、地面のように動くことはない。きらりと輝いてみえるときがあるのは、陽の光のせいでも、船がたてる波のせいでもない。

 わたしは観念によって、すべてを捉えているといっていい。目の前にあるものと、その名前とが、ぴったりと符号して理解されることは、ほとんどない。

 陽というものも、船というものも、波というものも、実感としては存在しない。それらの単語の意味を習得したあとに、その意味と符号するものが見つかったとき、その単語を取りあえず使用しているだけだ。


「陽」は、絶望を消し、希望を与えるもので、光というものを放つ。それは、夜をふりはらったり、憂鬱を吹き飛ばしたり、昇ったり落ちたりするもので、消えてしまうと切なくなったり涙をこぼしたりする。

「船」は、湖や海に浮かんでいて、ひとを乗せるもので、行先にかんしては、地図というものを頼りにしたり、しなかったりする。そもそも、分からないこともあるらしい。もちろん、もう決まっている場合もある。それは、夢であったり、未来であったり、新しい明日だったりする。空を「航海」することもある。このとき、「海」という字にとらわれてはいけない。

 わたしがはじめから知っていたのは、ピアノの弾き方だったり、譜面の読み方だったり、作曲に必要な知識と技術とそれに関連する用語だけだった。それ以外のことは、手紙を通して彼女から教えてもらっていた。


 わたしは身構える。どちらの窓から、手紙が届いてくるのか、そわそわしながら待つ。ふわりと風が吹いた。手紙はふた回転して、わたしの足下へと逢着ほうちゃくした。開くとそこには、いくつもの文章が書かれている。いままで届いてきた手紙をもとに作った辞書のなかから、単語の意味を探す。知らない単語は続々と現れてくる。その単語の意味を文脈から判断し、もう使えなくなった楽譜の裏面で作ったこの辞書に書きたしていく。作曲より辞書の編纂へんさんの方が楽しく感じることもある。

 なるほど、「歩道橋」というのは、雨のなか傘をさして歩くところで、でも、彼氏をぶった帰り道では、傘を引きずってずぶ濡れになり、うつむいて歩かなければならないらしい。そして、「泣く」という行為は人間だけではなく、「空」もすることがあるらしい。


〈空がめそめそと泣く、歩道橋から見る道路は、万華鏡、花火大会、眼鏡なんて、とっくに蹴飛ばした、綺麗だ、見たくないものを、好きなように見て、快楽を覚えたい〉


 この文章の意は、あまり時間をかけずとも解釈できた。わたしは満足だった。


〈舗装された道を引っぺがしてやりたい、干からびていいから、涙といい汗といい、ぜんぶぜんぶ排水してしまいたい〉


 よわってしまった。これが文章として成立しているということは分かるのだけれど、「道」というのは、どこまでも続いていて果てることのないものであり、「涙」と「汗」は、努力と結びついて結晶して希望へと彫塑ちょうそされるもののはずだ。たしかにそれらは、落ちたり零れたりはするけれど、「排水」されるとは聞いていない。「排水溝」という単語は辞書に載っているけれど、これは、「排水-する」という構造になっているらしい。

 わたしには、この文章をメロディに変えることが求められているのであって、それを記号に表わして作った楽譜を、窓の外へと落とし、それが沈んでいくのを見届けるまでが役目だ。

 この文章を読んで、辞書と過去の手紙を参照しながら、どうにかこうにか、苦しまぎれにメロディを紡いでいると、書きかけの譜面から音符や五本の線が風に乗って去ってしまった。屈辱だった。

 そしてまた手紙が舞いこんできた。


〈くらくらと舞う蝶が、うらやましい、ひらひらと飛んでいるのだと、勝手に思ってもらえるから、愛される、愛撫される、錆を取ってもらった、くるみ割り人形になる、くらくらと舞う蝶は、囲碁の盤面にできたコウ、誘蛾灯の蘂、辞書に載っていない、存在しない文字〉


「くらくら」は、「ひらひら」の間違いではないのだろうか。いままで彼女は、いくつかの誤字や脱字を犯している。ため息がもれる。最近、よくわからない単語が増えている。「誘蛾灯」の「誘」は「誘う」ということで、「灯」も想像できる概念だ。「蛾」というのは「虫」であることは分かる。「我」というのは…………彼女自身のことかしら?

 でも、彼女のこうした間違いを、どう補完しどう調理すればいいのかということは、だんだんと分かってきていた。しかしあまりにアレンジが過ぎると、夜がなくなったのか、わたしが消え去ったのか、あるいは、なにもかもが無かったことになってしまったのか、光というものがどこにもない暗やみのなかに放りこまれてしまう。

 わたしは、だんだん、彼女が欲するものに答えられるようになってきていた。それでも、彼女は貪欲なのだ。何度も何度も、注文をしてくる。わたしはオーダーされたものを、湖へと落とす。「ひらひら」と舞って、水面にぴったりと貼り付いて、うらめしそうにこちらを見ていたかとおもうと、突然、なにかに引っ張られでもしているかのように水底へと沈んでいく。


 いままで、あの楽譜が、水底から返ってきたことはない。いや、一度だけあった。遠いむかしのことだ。一度……? 二度、三度、何度かあった気がする。「遠いあの日のこと」だから分からない。「遠いあの日のこと」、窓から忍びこんできた楽譜が顔に貼りついてきた。そして、あたりはパッと明るくなって、一瞬だけ、わたしのいるこの部屋がぐらぐらと揺れた気がした。湿っぽいその楽譜には、赤色の文字と記号とがびっしり書かれていて、最初はわたしの手が切れて血液がまとわりついているのではないかと思った。

 じっと見ていると、「修正」と書かれているのに気づいて、わたしはそのとき、その単語のことを知らなかったのに、(あ、この赤色の通りに直せばいいんだ)と気づき、ピアノに向かって急いで[修正]しはじめた。出来上がった[修正]した楽譜を、もう一度、湖の方へ落としてみたのだけれど、それは、なにかにひっかけられて、天上へと昇っていった。それからしばらく、手紙が舞い込んでくることはなかった。


 あれから「いくつもの夜を越えた」――閉めきっていた窓が、バンと強い音をたてて勢いよく開いた。そして、手紙が舞い込んできた。いままでで一番に汚い字で、見たことのないくらいの数の文章がぎっしりと詰まっていた。解読するのに時間がかかった。イライラした。

 しかし、その繰り返しのなかで、わたしは、彼女が書いている文章をどのように理解すればいいのかが分かっていった。

 それなのに、もう二度と、「修正」と書かれた譜面が水底から浮かんでくることはなかった。


 わたしは、彼女の書いた手紙を、数え切れないほど貯蔵しており、辞書に登録されている単語は増える一方で、ひとつひとつの単語の定義の記述も充実してきている。その辞書をひもとくことで、彼女の書いた手紙に現れる単語を理解し、文章の意図を推測し、書かれていないことを補完することが可能になる。そして、文法も習得していく。

「修正」と書かれた楽譜が戻ってこないということは、[修正]の役を務める、わたしじゃないだれかが、しくじっているからなのではないか。そう思ったことがある。すると、自分の有能さが自覚されていく。折角作った譜面から、音符がはがれていくのを見ると、彼女の方が間違っているんじゃないかと疑うようになった。

 わたしは彼女と[修正]役のふたりに対して、権力をふるうことができた。そしてそれは、現実へと拡張し、いままでにないほどに、自分の全能性を主張したようなメロディを紡ぎはじめた。


 けど、ある日舞い込んできた手紙に書かれていた、「Last Song, Goodbye, I am a Loser……」という、見慣れない文字列を見たとき、わたしはこうした全能性にとらわれてはならないという直感を覚えた。

 これが、見た事のない新しい記号だったからかもしれない。彼女のいじわるなのだろうと思ったが、もしかしたら、わたしを奮い立たせているのかもしれない。いや、わたしをもっと差し迫った危機へとさらそうとするサインなのではないか。当時は、そう感じたのだった。


 でも、しばらくすると、そんな新しい記号は手紙のなかに現れなくなった。

 それからというもの、手紙に書かれていることより、なぜこの文章が書かれているのかということに注目するようになった。貯蔵されている手紙を読み返すと、手紙を書く彼女自身が、でたらめで長ったらしい不安定で未完成な文章のように思えてきた。

 わたしの作業は、こうした手紙の順番に注意しながら進めていくことになった。すると、わたしのピアノの響きが変わっていった。音に色が感じられるようになった。香りがするようになった。自分で弾いたものなのに、拒絶したくなることがあった。姿形がないのに、抱きしめたくなることもあった。

 わたしは、届いた手紙を音に変えて、作りあげた楽譜を湖へと落とす仕事に、楽しみを見出しはじめた。


 この手紙の主を「彼女」と呼ぶようになったのは、手紙に書かれている文章から推測したに過ぎないのだけれど、例の「Last Song……」と記された手紙に書かれている文章を読み解く過程で、ほとんどそれを確信した。


〈わたしは、彼にとって、彼女だった、だから、一方通行の標識を、違反切符を切られる覚悟で爆走し、だれかを轢いても、この道の先にある希望へと疾走した。けれど、わたしは、もう疲れた。謝りたい。ごめんなさいって。そして、ごめんなさいを言えなくなる、という最大の謝罪をしたい、最期の歌、最期の歌、最期の歌、or, Last Song……〉


 つまり、彼女は、「彼」から「彼女」と呼ばれうる存在であるのだから、彼女は、「彼女」なのだ。あとのことは、なにを言っているのか分かりそうで分からなかった。このまま音にしてしまっても、なんらおもしろいものができそうにもなかった。


 わたしはうとうと眠っていた。座椅子を上からおさえつけるように。ぶわっと大きな風が吹いて、まだなにも紡いでいない五線譜が譜面台からパラパラと落ちていった。譜面を集めるついでに彼女からの手紙を拾った。一度ぐしゃぐしゃにしたものを開いて落としてきたらしい。しわだらけの手紙を手にとったのは、初めてだった。

 その文章を読んで気づかされたのだけれど、わたしは彼女から「彼」と呼ばれているらしい。


〈彼は、不思議な動物を飼っている、飼い慣らすことはできない、手放すこともできない、その鳴き声に耳をかたむけ、うっとりしていたのに、夕暮れどき、それはしくしくと泣き、叱ってでも黙らせたくなる、ピアノを弾くとは、そういうこと、演奏者は、不思議な動物を飼う、いいかえるなら、魔物に朝を預ける、…………〉


「不思議な動物を飼っている」という「彼」は、「ピアノを弾く」――「ピアノを弾く」のは「演奏者」だ。わたしのことだ。わたしは、彼女にとって「彼」と呼ばれうる存在らしい。辞書をめくってみても、「彼」には、そのような定義がない。加筆した。

 そして気づいた。「わたしは一体だれ?」と。いまさらだ。いまさらだからこそ、わたしは慄然りつぜんとした。両手でぺたぺたと顔をさわった。くぼみがあり、穴があり、指でつくと痛いところがあり、赤いものがしたたり落ちてきた。いつも見慣れている両手に指に爪に、それらがすべて、一夜にして作りかえられたような気がした。その爪のついた指を集めた手で触れたものの印象も、まったく変化してしまった。

(わたしは一体だれ?)

 だれ、という問いは、なぜ、という問いを呼んでくる。

 わたしはなぜ、窓から舞い込んでくる手紙に書かれている文章を、自分なりに咀嚼そしゃくしつつメロディへと昇華させ表現し、実像のないそれを音符を使い形態模写し、向こうの窓から湖に落としているのだろう?


〈自分で自分が分からなくなる、わたしは一体だれ?〉


 このピアノをぶっ壊すほどの荒々しさと力強さを、五線譜に収まりきらないほどの不誠実さと不寛容さを――このふたつを持ち合わせた響きを作りはじめた。わたしの習慣が崩壊していく。この空間を構成していた秩序が乱れていく。わたしが消えていくのが分かる。


〈落下する、空の町から、地上へと、落ちることに、安心する、苦しみから、不安から、混乱から、逃れられたから〉


〈湖へと落ちた、水底へ沈まず、泳ぎかたを知らず、もがくばかり、――――あてのない航海を、ただ寂しく、続けていく〉


〈さようなら、わたし、――――夢を追うな、もう、自分のことを、理解しただろ?〉


 最後の手紙、夢の終わり。理想だけでは、食べていけない。

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