夢路の番人に餞を
火月未音
夢路の番人に餞を
満月が照らす水面に一隻の小舟が波に合わせるように揺れながら停泊している。小舟には一人の娘が乗っていた。娘は少女というには気品ある雰囲気を醸し出しているが、女性というには物足りない容姿である。娘は退屈そうに水面に浮かぶ星をその細い指先でなぞっては、ゆらゆらと波紋として消えていく星たちにため息を送っていた。風が娘の黒髪を撫でてみせるが、彼女の退屈さは和らぐことはない。ただゆらゆらとまどろむように娘は静かに彼を待っていた。
遠くから微かな笙の音が娘の耳に触れる。娘は待ち焦がれたそれに、とっさに不安定な舟の上に立ち、音がした方を凝視した。笙の音が大きくなるにつれて薄暗闇の中から、篝火を船頭に灯した一隻の舟が浮かび上がってくる。娘はその舟に向かって、はしたなくも大きく腕を振った。
娘が乗った舟から少し離れたところでその舟は停まると、合わせるように笙の音も曲半ばで消えてしまう。娘は彼を呼んだ。
「番人さん、番人さん」
仔犬のように何度も呼ぶ娘に彼はため息をつく。彼は笙を置き、船頭の近くに姿を現してみせた。彼の変わらない姿ーー桜の花びらがあしらわれた紫紺の着物と薄衣を頭から羽織った姿に娘は嬉しそうに微笑む。
「なぜ君は何度もここにくるのだ。ここは夢路の外れ。流されれば現に戻れなくなる」
番人は呆れたように腕を組んでみせたが、娘はその問いかけを無視して話し始めた。
「私、番人さんに会えるなら何度だって来るよ。目が醒めなくなってもいい」
娘の言葉に番人の顔は強ばる。
「あっちには誰も私に興味がある人なんてないし。ここなら番人さんが……」
「私も君に興味はないよ」
娘の言葉を遮るように番人は冷たく言い放った。二人の間の水面に船頭の篝火がゆらゆらと燃えている。番人は娘を諭すように話し始めた。
「いいかい。ここは君の逃げ場所ではない。ここは夢路の外れ。夢路を迷った者が流れ着く場所だ。私がここにいるのは」
「迷った人たちを正しい路に導くため……だよね」
今度は娘が話しを遮る。
「そうだ。そして、私は君たちが現に戻るとともにその記憶から去る者。君がこうして私を覚えたまま、ここに来れるのはおかしな話なんだ」
娘の瞳に少し戸惑うような番人の姿が映る。娘は気づいていた。現に戻る時いつもどこか寂しそうに見送る彼の姿を。娘は自分の掌をぎゅっと握ると番人をまっすぐみつめた。
「私、番人さんと初めて会ったときのことは正直おぼろげなんだ。でも、目が覚めたときなんだか寂しかったの。誰だか分からないけど、もう一度あの人に会いたいなぁって何度も願った。そしたら、ここに来れて、番人さんと会うことができたの。だから……」
娘の表情に、なぜ今夜、娘が現れたのか番人は悟った。番人は心のざわつきを娘に悟られないように冷静さを装う。
「現に帰りなさい。君はもうここに来るべきじゃない」
「どうして」
「ここは夢路を迷った者が来る場所。君はもう迷子ではない」
番人の言葉に娘の瞳から大粒の涙が次々にこぼれた。娘の涙を拭うことができない番人は満月を仰ぐ。
「……そしたら、番人さんが一人になっちゃう」
番人は娘の優しさに月を仰ぐ目元が和らいだ。
「その言葉だけで私には十分だ。……さぁ、戻りなさい」
番人は置いていた笙を取り上げ、口に添える。娘は着物の袖で涙を拭うと、急いで番人がいる舟に近づこうと舟を漕ぎ始めた。しかし娘の舟は進む気配がない。
「待って番人さん。待って」
娘の必死な願いが届かないように、番人は笙を奏で始めた。笙の音色に促されるように娘の舟が番人とは反対の方に進み始める。
「番人さん、番人さん」
娘はうなだれるように座り込むと、離れていく篝火をみつめた。しだいに満月は雲に包まれていき、辺りが暗闇に沈んでいく。涙に濡れる娘の目蓋も閉じていった。
番人は娘の舟が消えたのを見送り、笙を奏でるのをやめた。船頭の篝火がゆらりと大きく揺れる。
番人がもう一度月を仰ぎ見ると、月から降り注ぐように白く輝く花びらたちが舞う姿が見えた。番人はそっと掌を出す。すると一枚の花びらがそっと降り立った。番人の掌に留まる小さな花びらにあの娘の姿を重ねる。番人は掌の花びらにこれからの夢路が良い旅であることを願うと、優しく息を吹きかけた。
夢路の番人に餞を 火月未音 @hiduki30n
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