あなたの背中

鍵崎佐吉

あなたの背中

 紙の本はかさばるから嫌いだ。文学部の学生がこんなことを言うと大抵はなんだか白けた目で見られる。だってしょうがないでしょ。こちとら可憐でか弱い女の子なんだから、片道一時間近い通学路を何冊も分厚い本を抱えて往復するのはさすがにしんどい。講義で無尽蔵に配られるレジュメにしろ、なくてもほとんど支障がない教科書にしろ、紙って結構重いのだ。

「田中さんって本読まないよね」という言いがかりにそう反論したら、そいつはどこか不満げな表情で「でもやっぱり紙の手触りがさぁ」とかわけのわからないことを言い始める。イライラしたのでジョッキの中身をぶちまけてやろうかと思ったけど、その時隣から穏やかな声が聞こえてくる。

「俺はどっちも好きだけどな。電子書籍も本には違いないんだしさ」

 少し赤らんだ顔でにこやかな微笑みを浮かべる佐藤くんは、なんだか初めて図書館に本を借りに来た少年のように思えて、多分私はその瞬間から彼を好きになってしまったのだろう。


 教室に入ると人はまだ半分くらいしか来ていなかった。さっと全体を見渡すが佐藤くんはまだ来ていないようだ。うちのゼミの教授は遅刻魔なので十分か二十分は平気で遅れてくるし、もう皆慣れてしまっていちいち文句を言ったりはしない。教授がやってくるまでの間、各々雑談をしたり本を読んだりしている。私はいつもの席に座って隣の翔子に声をかける。

「おはよ。なに読んでるの?」

鍵崎佐紀かぎざきさきの『地下牢にて』」

 そう言って翔子は本の背表紙を見せる。今月発表されたばかりの新作だ。

「ああ、私も今それ読んでる」

「あ、ネタバレなし! 何も喋らないで」

「そんな大げさな」

 仕方がないので私もタブレットを取り出し、同じものを読むことにする。暗い地下牢で出会った青年と少女の、互いに認め合いながらも恋には至らない、そんな物語だ。

 しかしただの好意と恋との境目はいったいどこにあるのだろう。恋人なら相思相愛でなければならないだろうけど、恋は片思いでも成り立ってしまう。そうやって叶うことのない想いをこじらせて、熟れて腐っていく果実みたいに心が膨らんでいく。中学の時に初恋の人にふられて以来、私の中で恋というのはそういうものになってしまっている。それでもまだ性懲りもなく誰かを好きになってしまうのは人間の性というやつだろうか。私はきっと今日も彼の背中を見つめることしかできない。急にこちらを振り返ってあの少年みたいな笑顔を向けてくれる、なんて都合のいいことは起こらないのだ。現実を変えたいなら自分から動くしかない。


 授業五分前くらいになってぞろぞろと人が教室に入ってくる。佐藤くんも来た。私はふっとタブレットに視線を落として気づいてないふりをする。彼はいつもの定位置である私の前の席に腰を下ろす。

「……おはよう、佐藤くん」

「おはよう、田中さん。あの人今日も遅刻かな?」

「わからないけど、そんな気がする」

「となると五連続遅刻だね。ロスタイム一時間くらいにはなってるんじゃないかな」

 こんな短いやり取りを繰り返してどうにかお互いに挨拶をかわすくらいの関係にはなれた。でもここから一歩踏み出すことができない。好きな音楽とか、好きな作家とか、好きなアニメとか、とにかくなんでもいいから接点が欲しい。自分が対人コミュニケーション能力において劣っていると思ったことはないけれど、これが恋だと自覚してしまったら急にうまく話せなくなった。私はもう彼の背中に恋をしていると言っても過言ではなかった。

「あれ、それって」

 曇天の空を一筋の光が貫くように彼が言葉を発する。それって、どれだ。私は半ばパニックになって言葉が出てこない。来るのか、来てしまうのか、都合のいいファンタジー。けれど舞い上がった私の翼はすぐに朽ち落ちた。彼の目は私を見ていなかった。

「鍵崎佐紀の新作だよね。近本さんも好きなの?」

 不意に話しかけられた翔子はそれでも落ち着いた様子で答える。

「うん、結構読んでる。佐藤くんはもう読んだ?」

「俺も今読んでる途中なんだけどさ——」

 頭の奥が冷えていくのがわかる。同じものを読んでいて、話しかけられたのは翔子だけ。その事実に打ちのめされて、少し冷静になってからようやく気付いた。電子書籍には表紙がない。ぱっと見で何を読んでいるかなんてわかるはずがないのだ。私が呆けているうちに二人の話はなんだか弾んでいる。私にはネタバレするなって言ったのに。今更話に割って入る気も起きず、私はただ黙って視線をタブレットに落とす。この不愉快な直角三角形の最も哀れな頂点が私だった。


 私が読んでいたのが紙の本だったら、佐藤くんは私に話しかけてくれただろうか。その答えは一生知りたくないし、やっぱり私は紙の本が嫌いだ。

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