私の愛する私

在都夢

私の愛する私

 ソファで一緒に映画を観ていたら、彼女が背中に腕を回してくる。細い指で私の肩甲骨をなぞってくる。くすぐったいのを我慢していると彼女は耳元で囁く。

「好きだよ」

「私も好き」

 間髪入れずに答えると耳たぶに痛みが走る。

「噛まないでよ」

 耳から歯が離れて代わりに抱き寄せられる。彼女の太ももに頭を乗っける形になったので、画面が見づらい。

「だって適当に言ったじゃん」と頭上で声がする。

「本気だって」

「こっち向いて言ってよ」

「嫌だよ映画観てんだから」

「映画より私のこと優先して」

 ぽしょりと髪をいじられる。

「自分勝手だなあ」

「それ、私に言う?」

 彼女が笑う気配がする。顔を上げて確認すると、実際に彼女は笑っている。真っ白な歯を輝かせて、私にそっくりな顔で笑っている。

 シャープな顎も、意地の悪そうな目つきも、鎖骨の下にある黒子の形まで全部同じだ。一卵性の双子よりも遥かに似ている。パソコン上でそのままコピペしたみたいに。

 記憶だって同じものを持っている。

 小学生のとき一週間で辞めたピアノ、仲間外れにされた林間学校のグループワーク、ついぞ告白できなかった美術部の先輩のこと。大学生になるまでの思い出を、全て共有している。こんなことは他人にはできやしない。

 ようするに、彼女は私自身なのだ。

「自分に遠慮する必要なんてないよね?」

 彼女はそう言うと私の頭をぐいっと自分の方に寄せる。垂れ下がった髪がカーテンみたいに落ちてきて、薄暗くなると私の鼻に噛み付く。

 好きと言葉で伝える以外に彼女は、私の体に噛み跡を残す。場所はいろいろ。頭、首、鼻、腕、腰、脚、くるぶし……。

 どういう理由なのか話し合ったわけじゃないけど、もちろん自分のことなので、知っている。

 恋人ができたのなら、こうやって私の証を残したかった。

 私がどれだけその人のことを好きか、示したかった。言葉で言い切れないくらいの、どうにもならない気持ちを直接的に、好きな人の好きな体にぶつけたかった。

 彼女はそれを実践しているのだ。


 自分自身と付き合い始めるまでの私は、擦り切れていた。サークルに片思いの相手がいたからでまあそれはいつものことだったけど、その子は私が「友達でいたままの方が絶対にいい」と自分自身に必死に思い込ませているうちに、どこか別サークルの男とくっ付いて、それからサークルに来なくなってしまった。

 大学生にもなって同じことを繰り返すのだろうか?

 いいかげん嫌になって、学校からの帰り道で途方にくれ、普段寄らない公園のベンチに座った。

 夏なのに肌寒くて震えてると、声をかけられた。

 振り返るとそこには全く同じ顔をした人間がいて、服装までそっくりで「久しぶり」なんて言いそうな気安さで立っている。

 びっくりしたというより、死ぬかと思った。

 ドッペルゲンガーのことなら私だって知っている。出会ったら死ぬもう一人の自分。

 恐怖のあまり唇を震わせていると、彼女は私に、

「ん」

 ん?

 と見れば彼女は両腕を前に突き出し広げている。何を考えているのかわからず、首を傾げていると彼女・もう一人の私は言う。

「昨日自分で言ってたじゃん。誰でもいいからぎゅっとしたいって。もう忘れたの?」

 私は昨日観ていたドラマのことを思い出して、「ああ」と言うと「でしょ!」と彼女が笑う。歯医者の両親に躾けられた故の白い歯が口の中に見える。目が自然な弧を描く。はっきり言って綺麗だった。鼻が高くて眉の形もいい。でも、友達には「美人だけど性格悪い役やってそう」なんて言われた顔だ。

「私だ……」

「まあ見れば大体わかるよね。ん」

 促されるがままに私は私と抱き合う。求めていた人の温もり。気づいたら私は泣いていた。彼女も泣いていた。周りのことなんか気にせず泣き続けた。

 ひと段落つくと、お互いに背中を撫で合った。それから私は気になってたことを質問した。

「私……さん? なんでここに?」

「ここ? まああなたと同じ理由だよ」

「同じってことは……」

「そう。失恋」

「……」

 ドッペルゲンガーがどんな相手に恋するのか?

「あなたが好きだった相手だよ」と彼女が言う。

「西野さんのこと?」

「まあそうだね」

「でも私は……あなたは西野さんに会ったことないでしょ?」と私は言う。

「何回も会ってるし遊んだこともあるよ」

「え」とギョッとした声が出る。「どうやって?」

「ドッペルゲンガー甘く見てるよね」

 彼女がニンマリする。

「私はあなたの意識の外で活動してるんだよ、基本的には。あなたが見てないところで好き勝手してるんだ。あなたが授業受けてるときに映画だって観れるし、美味しいものも食べれるんだよ?」

「なんかずるくない?」

「ずるくないよ。あなたに意識されてたらどこにも行けないんだよ」

「じゃあ、これからどうするの? どこにも行けなくなっちゃったんでしょ?」

「まあね」

 平然と彼女は言うのでなんだかなあと思う。私も適当なところがあるけどこんな感じだったんだろうか? とちょうどタイミング良く、風が吹く。髪が目にかかり、鬱陶しそうに手で払った。

 二人同時に。

 耐えきれずに私は噴き出した。

 それからこれまでの人生をお互いに慰め合いながら振り返る。自分同士だから当然盛り上がる。嬉しいことより悲しいことの方が記憶に残っていて、吐いても吐いても止まらない。抱えてきた感情をぶつけ合う。それはとても心地よくて陽が完全に落ちるまで話している。話がひと段落つくと私は、

「で、どうして今になって出てきたりしたの? もうぐーたら出来ないじゃん」

 彼女の声が低くなって、

「……私はもう片思いのまま終わるのは嫌」

「でも、だからといって行動を変えるわけでもない」と私は言う。

 彼女は頷いた。

「そこが私の弱いところ。現状維持が大好き。今の自分のままで構わない。でもそれってさ、自分を愛しているってことじゃない?」

 言葉を区切ると彼女は私を見つめる。赤くなった瞳。私はその痛みを知っている。そして彼女が何を言うのかが自分事のようにわかる。

「付き合わない? 私たち」

「普通の恋人みたいに?」と私。

「うん。やりたいこと全部やっちゃおう」

 と言いながら、彼女自身は不安そうに眉をひそめている。拒絶が怖いのだ。

 私は不意に、その顔がとても可愛いと思ってしまった。恐る恐る彼女の頬に手を伸ばすと、なめらかな肌にピッタリと指が吸い付く。気がつくと彼女も私に触れていた。さっきまで抱き合っていたのに、遠慮がちに、まるでたった今出会ったかのように、ぎこちなかった。

「……困ったかも」と私は言う。

「でしょ?」とはにかむように彼女が言う。

 彼女は私だ。私のことをなんでも知っているのだ。

 私はもう彼女のことを好きになり始めている。

 自分の惚れっぽさに心底呆れそうになるけど、仕方がない。私はすぐ人を好きになる。

 そしてそれは彼女もそうなのだ。

「付き合おっか」

 と私は言う。それから噛み締めるようにもう一度「付き合おう」と彼女を見つめた。


 好きな人に好きだと伝えられることほど幸福なことはないと実感する。それを言えないのは、欲しいもの、やりたいことに背を向けているようなものだ。どうして言いたいことを我慢しなければならないんだろう? でももう私は我慢していない。

 私は好きな時に彼女に好きだと言い、彼女も好きな時に私に好きだと言った。

 嫌がるそぶりを見せていたとしても、内心は全然嫌じゃなかった。面倒だなと思う時だって、三度目くらいの「好き」でどうでも良くなってしまう。私は私に夢中だった。

 つまり私が彼女を意識していないときはほとんどなかった。それこそ何かの作業をしているとき、あるいは眠っているとき以外、私は彼女のことを考えた。ドッペルゲンガーの彼女はそれだけで、どこにも行けなくなる。

 洗濯機の回る音を聞きながら彼女のことを考えて、鶏肉に火を通しながら彼女の姿を見る。私が見ていることに気づくと彼女はにっと笑う。

「私って束縛激しいね」

「お互い様でしょ」

 と私は言う。

 この頃、彼女は私が大学に行っているときのことを知りたがった。

 彼女は私が過ごした人生から解き放たれている……というのは大袈裟な言い方だけど、彼女は私の経験を自分のものとして捉えることができなくなっていたし、紙で切った傷なんかもできて、少しずつ体自体も私のものと異なっていった。

 私が私でなくなってきている。

 言うまでもなく私が気づいたことに彼女も気づいていた。でもだからといって騒ぎ立てるわけでもなかった。なぜなら私は彼女のことが好きだからだ。噛んでしまうくらいに。


 先輩を見かけたのが、彼女と付き合い始めてから三ヶ月くらい経った後だった。隣町にある画材屋でアクリル絵具を手に取っているときに、先輩が私の横を通り過ぎていった。

 先輩は私には気づいていないみたいで、そのままレジに向かった。先輩の後ろ姿。中学の頃は短かったのに、髪を伸ばしている。うなじも見えなくなっている。横顔を見てなきゃ先輩だとわからなかったかもしれない。

 先輩。

 先輩は私が初めて好きになった人だった。それまで私は人を好きなることなんて一生ないなんて思ってたくらいで、男の子と「好きだ」「嫌いだ」をやってる同級生のことがよくわからなかった。でも先輩を好きになってから、私は私のことを理解した。好きの方向がちょっとずれていたのだ。

 私は先輩が会計を終わらせるまでにそのことを思い出していた。


「好きだよ」

 今日も彼女はソファの上で言う。季節は秋を過ぎて冬で、くっついているだけで暖かい。

「私も好き」

 決まりきったように私は言って、彼女の人差し指を噛む。別に美味しくもない。でも噛んでいたい。ずっとやりたいことだったんだから。

 それなのに私の頭はうまく働いてない。

 頭にあるのは先輩のことだった。

 あのとき黙っていないで先輩に話しかけていればよかったかもしれない。別に元々好きだったからじゃなくて、近況のこととか全然知らなかったんだし、話すくらいしたらよかった。

 私は誰かに好きと言えるようになったのだ。それくらいできるはずだったのだ。

「いたっ」と彼女が言うので指から口を離すと、彼女は指を顔の前まで持ち上げる。それを見て、私の心臓が跳ねる。

 彼女の人差し指から血が垂れている。歯型がくっきりと浮かんで、ぷつぷつと絶え間なく転がるように血が指先から流れ落ちる。

「ご、ごめん」

「別に平気だよ」と彼女が「あー絆創膏どこだったっけ」とソファから降りる。

「……考え事してた」

「だろうね。上の空って感じだったもん」

「気づいてたの?」

「私じゃなくても気づくよ」

 石鹸で手を洗いながら彼女が言う。

 私は追い縋るように彼女の背後に行って、肩越しに指を覗き込む。

「……ごめん」

「謝らないでいいって。自分に謝るなんて変だよ」

「でもさ、痛いでしょ」

「痛くなんかないよ。あなたがやることならなんでも」

「……私だったら痛いと思う」

「そう」と彼女が私の左腕を掴むと、持ち上げる。そして振り返り、人差し指に噛み付いた。

 本気で噛みちぎられるかと思った。それくらい強く噛まれた。

 彼女は私を見つめながら、口の中で指から歯を離した。口の中は生温かったけれど、それ以上に噛み跡が熱かった。指に小さな心臓があるかと思うくらい、どくどくと鼓動していた。痛みを耐えているうちに彼女の喉が音を鳴らした。血を飲まれてる。

「痛くないでしょ?」

 彼女が指から口を離し、言った。

「……痛くない」

「でしょ?」

「……好き。あなたが好きだよ。好き好き……」私は何度も繰り返す。

「私も好きだよ」

「本当に好きだよ、好き……」

 言葉にすればするほど薄っぺらになっていくそれを、私は止めることができない。私は彼女のことが一番好きなのに、どうしてこんなことをしているんだろう? 

 疑問は消えない。

 夜、布団に入っても眠れない。

 私は彼女のことを考える。そのはずだったのに先輩のことが浮かんでいる。先輩と過ごした日々が浮かんでいる。その次にどうやったら会えるだろうかと考えている。大学には進学しているだろうから、あの町の、あの画材屋にいけばいずれまた会えるはずだ。連絡先もその時に交換すればいい。先輩ならきっと断らない。先輩が私を受けて入れてくれるかどうかはわからない。でも言わずにはいられないし、行動せずにはいられない。と考えて、

 私は瞼を開ける。

 起きあがろうとすると、彼女の手が私の手に重ねられる。

「眠れないの?」と彼女は言う。

「うん」

「どうして?」

 私は押し黙る。

「不安なことがあるの?」

「……私は」と私は言い直す。「あなたは何もないの?」

「あるよ」

 と即答する彼女に私は驚く。

「……どんな?」

「それは言いたくないな。プライベート的に」

 今さらか、と少し笑う。

「言ってよ。私も眠れるようになるかも」

「言いたくないなー」と彼女。

「言いなよ、恥ずかしくなんかないでしょ」

「先輩と会ったのが、あなたにバレるのが怖い」

「先輩が?」

「そうだよ、あなたが好きで私が好きだった先輩」

 私は固まる。今彼女が言ったことが理解できない。聞き返そうとすると額にキスされる。

「好きだよ私」と彼女が言う。

「ごまかさないでよ」

 声が震える。会ったって何? 誰に?

「ごまかさないよ。ねえ……あなた、先輩のこと好きでしょ? 私より」

「……」

「だからね、私、もうあなたの意識の外にいるよ? もうどこにでも行けるしなんでもできる」

「……そう」

「でね、出かけたときに先輩とたまたま会ったの。急いでる感じでもなかったから、ご飯誘って一緒に食べた。それだけだよ……ごめん、嘘。全然それだけじゃない。私、先輩に告った。好きでしたって言った。ずっと昔から好きでしたって。先輩と一緒に絵描いてたことが忘れられないって」

 彼女が続ける。

「先輩はありがとうって言ってくれた。でも断られたよ。付き合ってる人がいるんだって。女の人。はは、笑っちゃうよね? 中学の頃に告白しとけば成功したかもしれないのにね? 一言言えば済む話だったのにね。好きですって一言言えばこんなに苦しくなくて済んだのにね。私ってどうしていつもこんななんだろう……」

 彼女がえづいた。

 顎から涙が伝った。

 彼女の話を聞いて私の中から何かが抜けていくのを感じる。知らず知らずのうちに私も涙を流している。それで抜けていく何かがわかる。私の先輩を好きだった気持ちだ。それが薄れどこかに消えてしまった。

 彼女が私の代わりに精算してしまったから。私の辿ったかもしれない未来を体験してしまったから。

「先輩……先輩……」と呟く彼女を私は抱きしめる。

 もはや彼女は「私」とは言えない。私が言えなかった一言を言えてしまうのだ。

「好きだよ、私」

 私の方は、自分自身に好きだとしか言えないのに。

「誰よりも好き、一番好き」

 私の嘘に彼女は泣きじゃくりながら笑った。


 翌日になると彼女は私の家から姿を消していた。何日か待ってみたけど戻ってくることはなかった。

 私は自分「一人」の生活に戻った。

 指の傷はまだ治っていない。見るたびに彼女を思い出す。彼女の指も同じだろう。

 痛いし痒い。

 私から解き放たれた彼女は、私の知らない場所で、私の知らない誰かを好きになっているはずだ。絶対にそうだ。彼女は結局いくら変わろうと本質的には私自身で、容易く人を好きになるのだ。

 私も私以外の誰かを好きにならなければならない。そして好きだと言葉にしなければならない。

 次の春がやって来るまでには。

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