[20時26分  北校舎・二年B組]

 世界のどこかで戦争が起きていても、世界のどこかは平和であるもの。


 同様に北校舎三階で非日常的戦闘が行われているにも関わらず、その下の二階では、高校生たちと幽霊と幽霊犬が、自己紹介の機会が与えられなかったことに拗ねた淫魔を必死でなだめるという、のんびりしたことを繰り広げていた。


 「いいんです、いいんです。どうせわたしなんか、おちこぼれだし、学校出たけれども男の一人も落としていないし、お母さんからは追い出されるし……」


 掛けた言葉の全てが無駄となった巫女の菖蒲あやめは頭を振ると淫魔のそばから離れた。なぜに巫女の自分がこんなことをしているのだろう、と思うが、まあ世の中には乗らなければいけない流れというものがある。


 いじけた淫魔への説得役は、残念系彼女なし男子の曽我部そがべ和之かずゆきから始まり、しっかり系彼女持ち男子の高橋たかはし弘忠ひろただに移り、そこから同じ非人間であるという理由で幽霊の笑子えみこにバトンが渡され、さらにおっぱいが大きい者同士なら話も通じるのでは、という非論理的な言葉と共に菖蒲に交代したのだが、とりあえず一周してわかったのは、この淫魔面倒くさい、ということであった。


 菖蒲は溜息をつくと、幽霊犬のレモンがなぐさめるように足元に寄ってきた。さすがにこの子にバトンをつなぐのはいろいろと問題がある。


 というわけで。


 「さあ、曽我部くん。二巡目ですよ」


 「いや、弘忠も笑子ちゃんも、瀬尾せお先輩でもダメだったんですよ。ここは時が解決してくれる、という便利な言葉にすがりませんか?」


 すがりませんよ、と後輩の肩を叩く。そうはいわれても、と困った顔をする和之に、不意に悪戯心がくすぐられた。


 「そうだ、曽我部くん」一つ下の男の子の耳に唇を寄せる「うまく説得できたら、なにかお願いをひとつ聞いてあげましょう」


 曽我部和之の動きがとまった。ゆっくりと首が回り、顔が菖蒲の方に向く。


 「セ、センパイ。あ、あの確認しておきたいのですが、お願いというのは、その、僕の願いということですよね」


 はい、そうですよ、とうなずく。なにを願ってくるかはわからないが、それが青少年保護育成条例的に不適切なことであったら、なんでも聞いてあげるとは言っていませんよ、で切り捨てればいいだろう。


 「そうですね、では信頼のあかしとして……」そう言ってから、自分が深く考えずに口を開いたことに気付く。気付くが、和之かずゆきの間抜け面を見ていると、まあいいかな、という気持ちになる「あなたのことはこれから名前で呼びましょう。和之君。あなたもわたくしのことは名前で呼んでください」


 言い終わってから、名前で呼ぶことがどうやって信頼につながるのだろうか、と思ったが、和之からは元気よく返事が戻ってきた。


 「はい! お任せください、菖蒲先輩!」


 証になるのか、これが。


 壁に向かって膝を抱える淫魔に向かう少年の背中を見おくる菖蒲に、幽霊少女が抱きついてきた。


 「どしたの? 菖蒲ちゃん」


 「なにがですか?」


 「いまのあれ、菖蒲ちゃんっぽくないよ。だいじょうぶ? 和之ちゃんになにか引きずられていない?」


 まさか、と笑う。自分が向こうに影響を与えるのならばともかく、彼に自分が染められるとはとても思えない。


 まあ、確かに自分があのようなことをするのは珍しいけれども、それはちょっとした遊び心というやつだ。彼のようにのんきな少年に自分が引きずられるなど――

ん? なんだろうこの引っ掛かりは?


 わずかにうつむき、思考を集中させる。いま抱いた違和感へのきっかけは自分の背中にいる幽霊の言葉だが、そう思わせるだけのなにかが彼にはあったはずだ。


 記憶を辿る。初めて話をしたのはつい先程のことだ。思い出せ。思い出せ。


 そして注意していなかった記憶に行き着く。


 この教室に飛び込んだ時だ。あの時、自分が割ったガラスの破片はあの少年に向かって降り注いだ。派手な音と飛び散るガラス。たとえ事態を認識できなくとも、知覚した時点で反射的に身を守る行動を取るたぐいのものである。


 だが、和之というあの少年は防御するための動きをまったくしなかった。反射的にとるべき動きが一切なかった。


 「反応できなかった」のであれば、単に鈍いからだという結論を導き出すことができる。


 だが「反応しなかった」であれば話は違う。その場合は、反射を上回る意思が――しかも、危険な状況下において身を守らないという、不合理な意識が存在していたことになる。


 単なるのんきな少年では決して持ち得ないようなものを。


 自分の辿り着いた結論が、菖蒲の視線を和之へと向かわせた。


 いったいどちらなのでしょうね、という独り言がこぼれるよりも早く、少年と淫魔の会話が耳に飛び込んできた。それが菖蒲に結論を下させる。


 うん、間違いない。あれはただの鈍い男です。でなければ、いくら淫魔相手とはいえ、落ち込んでいる相手と「だいじょうぶ、ランさん、おっぱい大きいから。いえい、巨乳、いえい、おっぱい!」「い、いえーい」などという脳味噌の存在すら疑わせるようなやりとりはしないでしょう。


 菖蒲の表情を見た幽霊少女は静かに彼女から離れた。宙を漂いながら壁に背を預けているもう一人の二年生男子に近付く。


 「ねえねえ、弘忠ひろただくん。君、和之ちゃんの親友だよね。和之ちゃんってどんな子? 他の人に影響を与えるタイプかな?」


 「他人に影響を与えない人物、というのはいないと思いますよ。それが良いものかどうかを別にすれば」ただ、まあそれに対する答えに近いものをいえば、と弘忠は腕を組んだ「あいつがいると、なんだか雰囲気がゆるくはなりますね。のんきな、といってもいいかもしれません」


 「それは、和之ちゃんがのんきさんだということかな」


 「さあ」弘忠の顔が少しだけ真面目になった「あいつはたしかに言動がバカでのんきなところがあります。でも、それがあいつの全てか、とかれたらそれは否定します」


 「本当は違う、ということ?」


 「いいえ。それはあいつの一部でしかない、ということです」


 弘忠は淫魔に話しかける親友に目を向けた。


 出会ったのは、去年の入学式。同じクラスになった和之は、自分の席の周囲の人間に愛想よく話しかけていた。弘忠はその中の一人であり、その後、言葉と時間を交わす中で、自他共に認める親友という間柄になった。


 どちらかというとあまり人との距離を取りたがる弘忠だが、和之を通じて人とのつながりは広がった。


 その中に和之の幼馴染である宮部みやべ夕子ゆうこがいて。

 そして。


 二ヶ月前の告白を後押ししたのは和之であった。二人が付き合うことになったのを報告した時に、「今日だけだからね」という言葉と共にバイト代で回転寿司をおごってくれたのも和之である。


 親友と幼馴染の幸福を、自分の幸福であるかのように祝福してくれる少年。それが曽我部和之であった。


    ・


 ――曽我部が好きなの、宮部さんだったよね、絶対に。


    ・


 クラスの女子が口にした小さな噂話が偶然耳に入るまでは。


 その噂の真偽を確かめたことはない。確かめるほどのことではないと思ったのか、確かめたくはないと思ったのかは自分ではわからない。ただ、少しずつ親友の前で自分の恋人の話をする回数を減らすようにはした。


 減らしたものの、結局、親友の気持ちというものはそれまで以上に見えなくなってしまった。和之が幼馴染のことを好きであるかもしれない、というフィルターを通してしまうと、彼の自分達への態度は無理をしているように見えてしまう。


 実際は、それまでと何も変わらないというのに。


 「あれ、もしかして、聞いちゃいけないこと聞いちゃった?」


 幽霊から声が掛けられた。そこで自分が黙り込んでしまっていたことに気付く。

いえ、別に、と言葉だけで否定したところで、淫魔をなぐさめていた親友が自分を呼ぶ声が聞こえた。


 「どうした、和之」


 いつもと同じ声を出す。意識して出す。


 「えーと、ランさんの機嫌が半分ほど戻りました」


 見ると、膝を抱えていた淫魔が立ち上がっていた。手は和之の服の裾を掴んでいる。どうみても泣き止んだ後で親に甘える子供の仕草だ。本当に男を惑わず淫魔なのか、あれ。


 「で、残る半分はプリンを食べると回復するそうです。というわけで、プリンを取りに行ってくるね」


 「行ってくるね、てどこに行くつもりだお前は」


 「プリンのあるところに決まっているでしょ。あ、みんなの分も持ってくるからここで待っててね」


 じゃね、と引きとめる間もなく、淫魔と共に和之は出て行った。残された一男子、一女子、一幽霊、一幽霊犬が互いの顔を見る。


 「……まあ、あれです」先程、三階から逃げてきた巫女の菖蒲が独り言のようにつぶやいた「いま危険なのは三階だけです。そこにさえいかなければ大丈夫でしょう」

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