[20時24分 南校舎・調理実習室]
世の中には、一切の悪意なしに他人を面倒事に叩き落とす人間がいる。
嘘だぁ、悪意なしに人を困らせるなんて人なんているわけないよ、と思う人は、そのうち天然系と言われている人から困った目にあわされるので、是非ともそのままでいて欲しい。ぜひ自らの体験で人間というものの底知れなさを学んで欲しい。
というわけで、本人に一切悪意がないにもかかわらず、喫茶店限定の友人を夜の学校に連れてきて「第一回自殺しようとした人の愚痴大会」を開催し、さらに結果的に殺し屋をコンコルド本田に誤認させるきっかけを作った最強主婦の
使用しているのは、かつてこの学校に通っていた時と変わらぬ場所に隠されている豆とフィルター。屋上の人たちへ持っていく分は同じ場所に置かれていた保温機能付きのステンレスボトルへ入れて保存完了。
次いで鼻歌と共に温めたミルクが既に入ったカップにすこしだけコーヒーを注ぎ、向かいに座る少女に出す。
「はい、どうぞ」ありがとうございます、と口を付けた少女の向かいに座り、自分のカップを傾ける「なるほどね、
「……あの、先程から何度も訂正していますが、その人のことを好きなのはわたしの姉です。わたしではありません」
「ああ、そうだったわね、うん、わかってるわかってる」
本当にわかっている人ならば絶対に繰り返さない言葉を連呼すると、
屋上での愚痴大会用のコーヒーが切れたため、ここにおかわりを作りに来た美和子が途中の廊下で見つけたのは、近くの中学校の制服を着た二葉と名乗る少女であった。
恐怖と警戒心を生まれた瞬間から手放しているような美和子は、当然のように明るく声を掛け、勢いのままにこの調理実習室に二葉を連れ込んだわけだが、コーヒーを淹れるわずかな時間で、初対面の人間からあれこれを聞き出すだけの信頼感を得ている辺りはさすがとしかいいようがない。
「それで、その二葉ちゃんが好きな曽我部
「いえ、ですからわたしではなくて、姉が好きな人です」
まあ理解は追いついていないようだが。
「そうそう。好きなのは二葉ちゃんじゃなくて、お姉さんだったわよね。いけないいけない。その曽我部和之くんはいまこの学校にいるのよね」
「はい。入っていくところを確認しましたから」
「なるほど。どんな子なの? 曽我部くんは」
「あの、これも繰り返しになりますが、それを調べるために、わたしはこんな時間にこんなところにいるのですが……」
ああ、そうだったそうだった、と主婦は明るく笑う。そうそう、この子は姉の
「あら。ということは、二葉ちゃんは、その和之くんの顔は知っているのかしら?」
「はい。姉のこのノートに写真が入っていましたから」
鞄から数学と書かれたノートを取り出す。
「どうして数学のノートに好きな人の写真が入っているの? もしかして、最近は恋愛のことを数学というのかしら」
「いいません。これは姉の――ストーカー的というか、ストーカー一歩……半歩手前……ギリ……まあとにかくそういう感じのノートです。そんな内容ですので、おそらく数学と名前をふったのは、偽装工作のつもりであったのだと思います」
まったく困った姉です、とため息をつく少女に、あらあら、と主婦はわらった。
姉の片思いの相手をみつけたからといって、その人を尾行するあなたもなかなかのものよ、という感想はしまいこんで、会話を続ける。
「どうしてそれを二葉ちゃんがそのノートを持っているの?」
「姉の数学の成績が心配だったので『ノートを見せて』と言ったらこれが回ってきました。どうやら姉本人も自らの偽装工作にあざむかれたようです――中に写真が入っていますが、見ますか?」
ううん、いいわ、と美和子は首を横に振った。
「わたし、写真ほどあてにならないものはないって思っているの」なぜですか、という純真な中学生の言葉に、笑顔を返す「二葉ちゃんは、写真で見た印象と実際に本人を目にしたときの気持ちが一致する人かしら?」
「……そうですね」
「それよりも、二葉ちゃんが見た印象の方が気になるわね。どうだった」
そうですね、と中学生は唇に指を当てて視線を落とした。
「なんというか……こう……『あ、この人ダメなんだろうな』という印象でした。頼りない感じで」
「あら大変」
「……なにが大変なんですか」
「その言葉と、その口調よ。ねえ、二葉ちゃん、その曽我部和之くんって子、なんだか可愛い感じがしなかった? 顔立ちとか見た目じゃなくて、雰囲気が」
「まあ、言われてみれば……確かに年上ですけれども……そういう感じがなくもないような」
あら大変、という言葉を美和子はもう一度繰り返した。
「女の子はね、必要とされることに弱いのよ。この人ダメなんだろうな、と思うだけならかまわないけれども、そこに可愛さを感じさせる人には気を付けないとダメよ。気付いた時にはどうしようもない関係になってしまっていることが多いからね」
「姉にそう伝えておきます。それから、わたし自身に関してはご心配なく。わたしが好きなのは、もっと強くて
あらあらまあまあ、と美和子が笑った時だった。
小さな音がした。
「あら、そこにいるのは誰かしら?」
掛けた声と同時に、美和子からは死角となっているところで再び物音がした。ん? と首を軽く傾げると、美和子はそちらへと足を向けた。
夜の学校での正体不明の物音、という警戒心を最上級に高めるべき事態であるにもかかわらず主婦の足にはためらいというものが全くない。
こーんばーんわー、と物影を覗きこむ。二葉が身をこわばらせた。
「お、大石さん。も、もしかして、だ、誰かいるんですか、そこに」
「んー、二葉ちゃん。私のことは美和子さん、て呼んでくれないかな。結婚してずいぶん経つけれども、どうも慣れないのよね、その姓で呼ばれるの」
のんきな言葉を返しながら、主婦は膝を折った。相手に高さを覚える。
「こんばんは」
そこにいたのは犬であった。猟犬という言葉が見た瞬間に浮かんでくる精悍さがある。
「犬、ですか」
こわごわと美和子の後ろから中学生女子が覗きこむ。
「うん、強くて凛々しくて逞しい系だね。あ、二葉ちゃんの理想じゃないのかな、この子」
「犬に想いを掛けるほど落ちぶれてはいません、わたしは」
「『落ちぶれて』となどというのは少々失礼ではないかな」
答えが返ってきた。美和子からではない。
犬からである。
「あら、あなたお話できるの」美和子が感心したように手を打った「さすが技術の進歩はすさまじいわね」
いや技術は関係ありませんから。
「失礼。ただの犬のふりをしていようと思っていたのですが。あのような言葉を掛けられて黙っていることはできませんで」
「そうよね。あ、わたしは大石美和子と言います。あなたは?」
「
そう、疾風さん、と名前を確認した後で、主婦と犬との会話に思考が停止しかけている中学生に声をかける。
「二葉ちゃん。あなたに悪意がなかったことはわかっているけれども、結果的に疾風さんに失礼なことを言ってしまったのは事実よ。悪気がなかったことを伝えるためにも、ちゃんと謝りましょう」
二葉は疾風と自己紹介をした犬を見た。どう考えても世界の常識がくつがえっている事態のはずなのだが、美和子という主婦の態度が落ち着いているため、混乱に陥りかけている自分の方が間違っているのではないかという気持ちになってくる。
「ご、ごめんなさい」
「うむ。君の謝罪を受け入れよう」
疾風は
「では疾風さん。お近づきの印に、コーヒーでもどうかしら」
いただきましょう、と応じた後、疾風は美和子を見上げた。
「そうだ、我からも謝罪を。警戒してのこととはいえ、お二人の話を立ち聞きしてしまった。申し訳ない」
いえいえ、わたしは別に、と答える主婦の目が中学生に向かった。わ、わたしも気にしていませんから、と二葉も答える。
「左様か。我の謝罪を受け入れてくれたことに感謝を。ところでご婦人、あなたは恋の上級相談者とお見受けする」
まあまあそんなそんな、と美和子は嬉しそうにわらった。なんだ恋の上級相談者って、下級相談者がいるのかよ、と突っ込みそうになる二葉の前で、主婦と犬の会話は続く。
「実は我も先程恋に落ちましてな。いや、お恥ずかしい。まさかこの年になって一目惚れをするとは思いませんでした」
「あらあらそれはそれは。わたしで良ければお話を聞かせていただきますわ。二葉ちゃん、あなたも一緒にお聞きしましょう」
「は、はあ」
いやわたしはただの中学生で、赤の他人の、というか赤の他犬の恋の相談など聞くような柄ではないんですが、と思いながら先程座っていた椅子に腰を戻す。
というか犬の恋愛相談ってなんなんですか。
「まず、最初にお聞きしたいのですが」深みのある渋い声で疾風は人間に訊ねた「魅力のある牡犬とはどういうものでしょうか」
知らんがな。
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