[20時23分 北校舎・屋上]
殺し屋という仕事は思いがけない出来事の連続である。下調べは入念に行う。装備については万全の準備を整える。考え得る限りの可能性を想定して計画を立案する。
そしてその全てが覆された場合でも仕事をこなすことが出来た者のみが次の仕事に臨むことができる。
殺し屋という職業に
その数少ない職業殺し屋であるアラタは屋上で正座をしていた。
あれか宿題を忘れた罰でも受けているのか、と思う人もいるかもしれないが、その方がなんぼかマシ。夜の学校で見ず知らずの他人の愚痴を聞くことに比べたら、大抵のことは笑って済ませられる。
というわけで、笑って済ませられない状況下にあるアラタは、引きつった笑みを浮かべていた。
正気とは思えない少年の、正常とは思えない行動に逃げ出したのがつい先程のこと。
階段を駆け上がり、追ってくるものがいないことに一息ついて踊り場に座り込み、二呼吸ほどしたときのに、背にしていた屋上へと続く扉が勢いよく開かれた。現れたのは自分と同年代らしき三十代半ばの女性。
その女性はこちらに向かって「こんばんは」という時間的にもっとも相応しく、状況的に最も不似合いな言葉を残し、楽しげに階段を駆け下りていった。
あまりに自然な挨拶ぶりに思考が停止してしまったのが失敗であった。その後に続いて現れたのがいま隣に座って一緒に若い女性の愚痴を聞いている初老の女である。
ちょっと
あー、もうあんたでいいや、と突然手首を掴まれて屋上に連れて行かれ、以後、なぜか若い女性の全く共感を呼ばない愚痴を延々と聞かされ続けているわけだが、文字通り乾いた笑いしか出てこない状況に自分がいるということしか理解できない。
この場をさっさと抜けようとはしたのだが、それを実行に移そうとすると、絶妙のタイミングで愚痴を垂れ流し続ける女性がこちらを指さして「わたしの話、聞いていますか!」と詰問するのである。
殺し屋とはいってもやはり人間。
こんな想定外の状況下では、さすがに気持ちが萎える。心が折られるのであれば、まだ立て直しのしようがあるのだが、萎えてからの復活というのはけっこう手間と暇が掛かる。
落ち着いて考えろ。
いま自分は殺しの仕事を受けている。対象は刃物小僧に一緒に追いかけられたあの三人組だ。そしてあいつらはここにいない。つまりこいつらは捜索の邪魔者だ。黙って立ち去ろうとしても、いまの状況はそれを素直に許してはくれないだろう。ならば排除か無効化する必要がある。みな素人だ。銃を片手に脅せばいいし、それが通用しなかったら叩き伏せればいい。
よし、やるぞ、と決意した時だった。
「あの……」
横から声が掛けられた。自分より年配の疲れたサラリーマン風の男が優しげな目を向けてくる。なんと言えばいいのだろう。まるで長年下積み生活を続けながら、一向に目が出ない売れない芸人を見るような瞳だ。
「うん、いくら頑張っても結果が出ないのは厳しいよね。でもやり続けることは最低限の努力だよ。やっても報われるかどうかはわからない。でも、やらなければ決して報われないよね」
いや待て、という短い反論をする余地すらも与えない笑みが中年サラリーマンに浮かぶ。
「私もね、さっきまでは人生を投げ出そうとしていたんだ。でもね、ここで皆に話を聞いてもらってその気持ちを下ろすことができたんだ。このお嬢さんの話が終わったら、次は君の番だよ。だから大丈夫」
大丈夫じゃねえよ。
「あ、あの、皆さん、ありがとうございます。話を聞いてもらったら、とてもすっきりしました。あ、明日から、が、頑張れると思います」
誰の心にも残らない無価値で不毛な愚痴を終えた女性がぺこりと頭を下げた。
「本当に頑張る人っていうのは、今日から頑張るもんだよ」
初老の女が言葉を返す。辛辣な皮肉ではあるが、その響きには温かいものがある。若い女が小さくわらった。
「さあ次は君の番だよ」
中年男が殺し屋の手を掴んで前に押しやった。彼をこんな場所に連れてきた初老の男と、彼にあんな話を聞かせまくった若い女が、サラリーマンの男に合わせて拍手をする。
いや、いらんがな拍手。
「あっ」
愚痴女が目を丸くした。不意に立ち上がって白い服に包まれた男を凝視する。
なんだ。なんだ一体。
「も、もしかして」女は震える声を唇からこぼした「お笑いの『コンコルド本田』さんですか!」
誰だよ、それは。
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