[20時17分  北校舎・一階廊下]

 おかしい、とその女――桂木かつらぎ玲香れいかは口の中で呟いた。一度足を止め、手近な教室に入る。


 一つ息を吐くと、スーツ姿のその女はジャケットを脱いだ。次いで、首元のボタンまできっちりとめているシャツに手を掛ける。


 頭の中で情報を分析する。


 ここで違法薬物の取引が行われている、という匿名の情報が本部に入ったのはつい数時間前だ。それだけならば所轄に情報を下ろして終わりだが、この通報には続きがあった。


 その取引には、先月死者が発生した反社会組織同士の抗争とも関わりがあるというのだ。


 悪戯いたずらとして片付けることができなかったのは、その内容には未公表である事実が、つまりは当事者と関わりがなければ知り得ぬ事実が含まれていたためである。


 結果、この情報に接し、警視庁は特務と呼ばれる特別班を派遣することに決定した。


 潜入し、情報を回収することに特化したその班は、法律により与えられた捜査権の範囲内で動く警察の本質からは外れた行動をとる。したがって存在は公にはされていない。限られた者だけが知り、極秘に動き、そしてその身に万一のことがあった場合は名も無き一市民の死として処理される。それが桂木玲香の属する部署の特質である。


 そこに選ばれている彼女の能力は、当然ながらあらゆる意味で高い。


 その高さ故に、彼女は違和感を感じ取ることができた。頭の中でこの学校の校内図を展開する。南北二つの校舎から構成され、それらは三つの渡り廊下でつながれている。校庭や体育館まで含めれば確かに広いが、校舎という空間に限定すれば感覚というやつで充分把握できる――はずであった。


 だが、いまはそれが働かない。なにも起きていないのならばともかく、なにかが起きていることがわかりながら状況が一切把握できないのである。


 ジャケットを、シャツを、そしてスラックスを脱ぎ捨てると、黒いライダースーツに似たものに包まれた身体が現れた。特殊繊維により防火と防弾加工が施されたこの高性能スーツではあるが、ただ一つ気に入らないところがある。


 ――まるでB級スパイ映画のコスプレだな、これは。


 手にしていた鞄から暗視機能付きのゴーグルを取り出して装着する。窓から入ってくる光を増幅させ、いままで夜に沈みかけていた物の形が確実に認識できるようになる。さらに武器をまとう。脇の下と腰の後ろにナイフと銃の重みが関わる。手首に付けた腕時計状の通信機の表示を見て玲香れいかは眉を寄せた。通信状況が不自然に悪い。外部との通信は期待しない方がよさそうだ。


 状況を再確認すると、秘密捜査官は自分が脱ぎ捨てたものを発信機と共に教室のロッカーの上に置いた。静かに教室を出た。階段を上がる。


 二階へ、そして三階へ上がった時に複数の足音が聞こえた。本来ならば一階にいる時に捉えていなければいけないはずのその音に身体が緊張する。


 角でしゃがむ。ゴーグルと連動した小さなカメラを使って廊下の状況を確認した時に彼女の思考が一瞬だけ停止した。


    ・


 服装からしてヤクザと思われるがどうにも凄みに欠けている三人組と、白一色に身を包んだ手品師のような男が全力疾走していた。


 それらを剣を構えた少年がそれらを楽しそうに追っている。


    ・


 あまりに大真面目で必死なため、逆にコント中であるかのように見えるその光景に、彼女の動きが停止する。その前を、逃走中の四人が通過した。三人組は階段を下り二階へ、白服の男は階段を駆け上がり屋上へ。


 そして。


 「へえ、他にもいたんだ」


 少年は曲がり角の数歩前で足を止めた。裸眼で、しかもあの状況下であるにもかかわらず、暗闇の中で差し出した小さなレンズに気付いたらしい。


 本能が玲香の足を廊下へと進めた。逃げれば追われる。そして確実に追いつかれる。そこに背後からの一撃が加わらない保証はどこにもない。


 ならば。


 「その格好――もしかして、あんたも怪盗ってやつかい?」


 少年の口から出た、『怪盗』という冗談のような単語と『あんたも』という言葉の組み合わせは、念のため脳裏に収めておく。収めながら膝の力を抜き、足の指に力を込める。


 「違うのか。まあいいぜ。さっきの奴らは遊びにもならなかったからな。あんたは楽しませてくれよ――俺は青山あおやま騎士きし


 名乗ると少年は剣を構えた。まるでマンガの登場人物のようなふざけた口上だが、それを行うだけの余裕が少年にはあった。


 玲香れいかの手が動く。左手に小口径銃、右手にはナイフ。目的は殺害ではなく、相手を負傷させ戦闘継続能力を奪うためのものであるが、凶器という本質は隠しようがない。


 少年の唇が歪む。


 直後。

 二人は同時に床を蹴った。

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