[20時10分  北校舎・二年B組]

 窓ガラスを割って突入してきた先輩の身体を正面から食らった和之かずゆき君は見事に床に叩きつけられた。意識と呼吸が一時停止する。


 そして、それから回復した直後、彼の脳裏によぎったのは、普通の高校生男子として行動しなければならない、という使命感だった。


 よく見えなかったが、飛び込んできた人、即ち自分に勢いよくぶつかってきたのは、間違いなく女性だった。おまけに最後の視覚情報を分析すると、お尻からぶつかってきた可能性が著しく高い。


 にもかかわらず、自分が覚えているのは、ボウリング玉を真正面からくらったような衝撃だけである。年頃になって以降、女の子のお尻など触ったことはないが、それでも断言できる。あれは、もっとロマンとメルヘンに満ちた感触であるはずだ。おそらく、ぶつかり方が悪かったのだろう。しまった、としか言いようがない。


 いやまて。


 自分がいまみたいに見事に転がったことから考え、あの飛び込んできた人もまたどこかに倒れているかもしれない。幸い、自分の視界はまだ揺らいでいる。いまこの時ならば女の子を探した時に、ふくらみに触れたところで、偶然という言葉で片付けられる可能性が非常に高い。


 よし、普通の高校生男子らしい行動原理の確認終了。


 という思考を一秒未満で完結させた和之君は、視界が回復しないまま四つん這いの姿勢で、あちこちを探しまくった。返ってくるのは冷たい床の感触ばかり。どこだ。どこだ。ロマンとメルヘンはいずこにおわすのか。


 「大丈夫か、和之」


 とつぜん真後ろから身体が引き起こされた。視界と脚が安定する。自分を抱え上げてくれたのは親友の弘忠ひろただだった。まことにもって友情にあふれた行為ではあるが、いまは感謝と同時に不条理な怒りがこみ上げてくる。


 「うおらぁぁ、なにしてくれとるんじゃ、ワレ!」


 「……すまん、お前の言動が普段から残念なため、いま正常がどうかの判断がつかない。正常か?」


 「正常だよ! この上もなく正常だよ! この意識と視界が朦朧もうろうとしている状況を利用して、倒れている人のいろいろな部分に、偶然を装ってロマンとメルヘンを求めようと……」


 「すみません、そこのあなた。はっきりとさせたくはないのですが、要するにそれは、この混乱に乗じてわたくしの身体を触りまくろうとしていたということでよろしいでしょうか?」


 声の方向に目を向けると、黒髪長髪の美人さんが笑っていた。こんな状況でわらっていられるなんて優しい人だな、と思うってしまった人は認識が甘い。


 人間、怒っていても笑うものなのですよ。


 「イエ、違いますデスよ」


 「そうですかか、わたくしの勘違いなのですね。それは申し訳ないことをしました」


 そう言いながら、袴姿の黒髪美人さんが、どこからか取り出した木刀をゆっくり構える。


 「いやいやまってください! 言葉と行動が合っていないでしょう、先輩!」


 そして自分の言葉で目の前の人が誰であるかに思い至る。瀬尾せお菖蒲あやめ先輩。一学年上の先輩だ。今年の正月、同じ学校の先輩が神社の娘で、そこでは巫女姿らしいから見に行こうぜ、という悪友の誘いで、わざわざ家から遠いところへ参拝しに行ったためよく覚えている。


 「今日は巫女服じゃないんですね。あ、でも、その袴姿も素敵です。最高です!」


 「……彼は本当に正常なのですか?」


 ええ、残念ながら、と真後ろで抱きかかえたままの親友が答える。なんだろう、この話にならないやつは無視しよう、とでもいうかのような連帯感がいま目の前で生まれたような気がする。


 「菖蒲あやめちゃん」青い光をまとってふわふわ浮いている少女が声をかけた「上、一段落しちゃったみたいだよ。どうする?」


 「逃げたいところですが、この人数がまとまって動くのも難しそうですね。とりあえず時間を稼ぎましょう」


 巫女は教室の扉に近付くと木刀を水平に構えた。緑色の光が木刀を覆う。先端が円を描いた。緑光がその軌跡をなぞり宙に円が描かれる。さらに誕生した円の中に複雑な紋様を書きこんでいく。


 教室にある前と後ろの扉の両方にその処置を施すと、菖蒲は部屋の中央に戻ってきた。割れたガラス窓から月の光が差し込んでいる。


 中にいるのは、自分と幽霊と幽霊犬の他に、後輩と思しき男子が二人と、それから羊の角にコウモリの羽根と尻尾を持つ女が一人。


 なんというか、三題小噺さんだいこばなしの題材にでもしなければ処理できないような組み合わせだ。


 「そちらもなにか面倒事が起きているようですね。とりあえず状況の確認の前に自己紹介でもしましょうか。わたくしは瀬尾菖蒲。三年B組です」


 「高橋たかはし弘忠ひろただです」背の高い少年が額を指で押さえながら答える。この異常な状況を、異常だと判断できるだけの冷静さを持っていることが見て取れる「二年B組です」


 「同じく二年B組の曽我部そがべ和之かずゆきです!」さきほどぶつかった少年が元気よく答える。こちらは、お前大丈夫か、と聞きたくなるくらい無駄に元気だ「先輩、愛しています! 結婚してください!」


 本当に大丈夫か、お前。


 無言のまま背の高い少年がそのこめかみに両拳を当てた。躊躇ちゅうちょなくそのままグリグリと締めあげる動きに、二人の日常と関係が見える。


 「わたしは笑子えみこだよ」宙に浮く少女が降りてきて一礼した。賑やかな夜になったせいか、いつもより楽しそうだ「学校の幽霊をやっているんだ。いわゆる地縛霊だね。それから、こっちはレモン。わたしの友幽ゆうゆう


 わん、とレモンが吠えた。


 犬の幽霊っているんだ、と感心したように和之が寄ってきた。恐れる様子もなく膝をつき、レモンと目線を合わす。すぐに幽霊犬が尻尾を振り、差し出した手に頬ずりを始めた。お、気に入られたみたいだね、カズくん、と笑子もそちらへ寄っていくのを見て、菖蒲は木刀を構えたまま眉を寄せた。


 なんだか面白くない。


 「笑子、レモン。バカが伝染しますよ」


 「えー、でもカズくん面白いよ」


 「笑子ちゃんも可愛いよ」


 ねー、となぜか幽霊と少年が唱和する。訂正。非常に面白くない。


 「いいから離れなさい」


 「そんなぁ。せっかくお友達になれたのに」


 「気を許してはいけません。これは女なら誰でもいいというタイプです」いやぁ、そんな、と和之が照れた「なぜ照れるのですか。わたくしは非難しているのですよ」


 「うん、まあそれはわかっているんですが。なんでしょうね、こう、綺麗なお姉さんに叱られるのも悪くないな、と」


 やはり結婚してくれませんかませんか、と真顔で提案する和之に、黙れ、と一人で気苦労を背負っているような弘忠が再び拳骨で頭の両側を締めつけてきた。バカにも痛覚はあるらしく、さすがに和之の口からも悲鳴がもれる。


 笑子がそれを見てわらった。菖蒲は溜息をつく。


 平常からは逸脱しているものの、高校生の日常をひきずるそのやりとりがさきほどまであった緊張感を緩和させ、なごやかな空気を作っていた。その後の言葉のやり取りが順調に流れ始める。


 あまりに順調であるため、そこに参加している誰もが気付かなかった。


 次はわたしの番だよね、わたしが自己紹介をする番だよね、と忘れ去られて涙目になっている淫魔のランのことを。

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