[20時12分 北校舎・屋上]
「そうかい、それは大変だったね」
御年六十八歳の
そのどちらもない
具体的にいうと、学校の屋上に足を踏み入れると、そこには脱ぎ捨てた靴の上に封筒を置いた状態で柵に手を掛けている男がいたときなどがそれに当たる。
結果、
どうやら自殺を選んだのは衝動的な気持ちであったらしく、話すうちに中年男は落ち着きを取り戻してきた。取り戻してきたはいいのだけれども、自殺というのが生半可な覚悟でできるものではないこともまた事実。
そこに向けていたエネルギーは愚痴に流れ、いまのところ止まる気配はない。
これで聞き手が二人だったら労力も半分になるのだが、先程まで隣に座っていた
そもそも自分をこの場所に引っ張ってきたのは、あの年下の顔見知り以上友人未満だというのに。
元々、特売とやらが行われている三年の教室が目的地であったはずなのだが、彼女が口にした言葉は「せっかく学校に入ったのだからまずは屋上に行きましょう、もったいないし」というものだった。
なにがもったいないのか、という反論は、「だってもったいないじゃないですか」という謎の論理で否定された。いやそもそも目的地は違うじゃないか、という指摘は「でも、もったいないですよね」という謎反撃で打ち破られる。
どうやら、主婦にとってもったいない、というのは鋼鉄以上の硬度を有する言葉らしい。
まったく理解できない。
一方、坂上の愚痴は絶賛継続中なのだが、こちらは聞き流す。それでいいのか、と思われるかもしれないが、上の娘に好きな人ができたらしい、最近の子は進んでいると聞いているが大丈夫だろうか、などという言葉を真面目に聞き続けられるのなら自分はカウンセラーになっている。
という願いが通じたらしい。
「
屋上の扉が開き、元気いっぱいの声が響いた。深夜の学校なんだから、もっと静かにしてくれ、と言いたいが、延々と愚痴を一人で聞き続けるという状況に終止符が打たれたことへの喜びがそれを上回る。
「まったく、ずいぶん長い花摘みだったね」
「あはは。坂上さんも喋りっぱなしで喉が枯れているのではないかと思って、調理室でコーヒーを淹れてきました。どうぞどうぞ、坂上さん、幸さん」
言いながらカップを手渡し、ボトルに入れたコーヒーを注いでくれる。この学校に入りこむ時に、コーヒーもカップもボトルも持ち合わせていなかったような気がするが、その辺りを追求すると、目の前の主婦の反社会的かつ反法律的行動が明らかになりそうな気がするので黙っておく。
しかし、この主婦は本当にのんきで明るい。あまりに明るいために、先程まで愚痴製造マシーンとして順調に働いていた坂上は毒気を抜かれたようになっている。
「あ、すいません、途中で
「あ、い、いえ、も、もう充分です、はい」あー、その、と中年サラリーマンはいままで愚痴を聞いていてくれた幸へと顔を向けた「ご、ご清聴ありがとうございました」
「いやいや、こんなばあさんが役に立てて嬉しいよ」
あら、おしまいなんですね、と美和子が嬉しそうに手を叩いた。そのとおり、終わりなんだよ、と幸の笑いが嬉しそうに重なる。
そして、さらに美和子の声がかぶせられた。
「ちょうどよかったです」
「…………ん?」
その言葉が引っ掛かった。正確に言えば、その言葉の響きに引っ掛かった。
この状況下で述べられた場合、それは即ち終結を意味する。これで終わり。あとは本来の目的である砂糖の特売とやらを確認して帰る。
そういう意味での「ちょうどよかった」という言葉が用いられるのが、いまの場合最も適切である。というか、それ以外にはありえない。
一区切りのように。
まるで続きがあるかのような響きで用いられるべきではない。もうここに愚痴をこぼす人などいないのだから。
「なーなーみーちゃーん。もう坂上さんの番は終わったそうよ。さあ、次は菜々美ちゃんの番。どうぞ!」
主婦の言葉に引っ張られるように一人の女が校舎内と屋上を結ぶ扉のところに姿を見せた。二十歳前後と思われるその人物は手入れもせずに伸ばしきったような髪を強調するように下を向いている。
「……美和子さん、あちらはどなたかね?」
「
というわけで、第二弾です、という美和子の明るい言葉に、幸の顔が引きつった。
だいじょうぶですよ、今度は聞き手が三人ですから、という言葉に、先程まで愚痴を垂れ流し続けていた坂上の顔も引きつった。
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