[19時30分 路上 ―喫茶店友達二人―]
「おや、あんたは――」
御年六十八歳になる
「それはこっちの台詞だよ。どうしたんだい、
「ああ、だいじょうぶですよ。うちの人、明後日まで出張ですから」
「旦那がいないからって出歩くのは褒められないね。子供は帰って寝る時間だよ」
「あー、ひどい。わたしもう三十八ですよ」
知っているよ、と幸は言葉を返した。二人はご近所さんでもなければ、会社の先輩後輩でもない。
幸が常連となっている喫茶店に、数年前から通ってくるようになったのが美和子である。顔を合わせた時に話をするのは喫茶店の中ぐらいであり、それ以外の店で会った時は軽く会釈を交わす程度の関係だが、その距離感が互いに気に入っているためか、それなりに軽口をたたくことの出来る良好な関係が続いている。
「まあ、大人がこの時間にうろつくのは構わないさ。構わないけれども、この場所はこの時間に訪れるようなところではないと、アタシは思うんだけれどもね」
幸が一歩詰め寄った。
「アンタ、昼間の喫茶店での話、聞いていたね」
「…………はい」
一呼吸おいて言葉が返ってくる。
「だったら、いますぐ帰りな。アタシは出版社に勤めていたときに、こういう系統の話を扱ったことがある。その経験から忠告させてもらえば――素人が首を突っ込むべきではないよ」
なぜですか、という言葉と共に意志の強い瞳が幸に向けられた。迷いのない瞳に、思わず幸が息を止める。
昼の喫茶店で交わされていたあの会話。おそらく、あそこにいた客と従業員のほとんどが話の内容を耳にしていたはずだが、気に留める様子を見せたものがほとんどいなかったのは、面倒事と関わり合いになりたくないという気持ち以上に、話の内容が怪しすぎて逆に信憑性がなかったからだろう。
幸自身にしても、情報系の雑誌の編集をしていた時の嗅覚が働いたからこそここに来てはみたが、確信というものはほとんどない。
砂糖ね、と口の中でつぶやく。あの会話からして、それが言葉通りのものを指すとは考えられない。別の白い粉を想像させる言葉。
それなのに。
美和子の目には力があった。ここで「何か」がある、「何か」が起きることを確信した者のみが持つことの出来る光が、そこには宿っている。
もしかして。
「あんた……家族の誰かを…………」
『砂糖』に関連することで失ったのかい、という言葉を潰すように、美和子の口から鋭い言葉が放たれた。
「特売」
「…………………え?」
「特売! お砂糖の特売が行われるって言っていましたあの人達。確かに、業者さん同士の取引かもしれません。でももしかしたら、小分けでも売ってくるかもしれないじゃないですか!」
幸の口が酸素不足の金魚のように開閉を繰り返した。
目の前の結婚八年目の主婦が言っていることは非常に単純であり、理解もまったく難しくないのだが、頭の中に勝手に組み上げてしまった「非合法組織の悪事により家族を失った主婦が、その手がかりを求めて取引の現場に押し入ろうとしている」というシナリオがあったせいか、
具体的にいうと、分針が一周するくらい。
「えー、美和子さん。要するに、ここで砂糖の特売が行われるらしいから、やってきた、とそういうことかい」
「はい!」
三十八歳の主婦は両拳を握り締めた。幸から見れば娘ぐらいの年頃のせいか、それが妙に可愛い。
「いいかい、落ち着いて考えてごらん。いまは夜。二十四時間営業でない限り、スーパーだってそろそろ店じまいの準備を始める時間だ。こんな時間に砂糖の取引なんてあると思うかい?」
でも、新製品の発売が深夜に行われることもありますよ、という返事が戻ってきた。さすがに頭を抱える。だめだ。特売に目が眩んで、遠回しな言い方は通用しなくなっている。
仕方がない、直接的な言い方で説得するか、という方針転換を選ぶ辺りが、ひたすら仕事に打ち込んできた幸の限界であった。
十円安い大根のために往復三十分を
結局。
説得の全てが通用しなかった上に、逆に特売の素晴らしさを並べ立てられることに根負けした幸は、意気揚々と歩みを進める美和子に続いて校門をくぐることになった。
・
それでも、特売に目が眩む主婦に、いつでも警察に電話ができるようにした端末を携帯しておくこと、ということを了承させたのは、流石としかいいようがない。
頑張れ、幸さん。
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