[19時23分 タニグチビル屋上 ―淫魔―]
大きく息を吐くと、ランは宙に投げだした足を揺らした。
腰掛けているのは十五階建ビルの屋上の端。壁を駆け上がった風が髪を強く揺らす。常人であれば恐怖しか覚えない状況ではあるが、少女はむしろ心よさげにその風を頬に受けている。
「……はぁ」
唇からは溜息がこぼれてはいるが。
ビルの屋上の手すりの外にて溜息をつく少女、などと表現すると、うん、あれだな、そんな危険な場所で溜息をつきまくっているということは、ひょっとしなくてもアレですな、大丈夫だいじょうぶ、世の中そんなに絶望したもんでもないから、さ、とりあえずおいちゃんとイイトコ行こうか、などと早とちりする人もいるかもしれないが、そうではない。
「どーしよーかなー」
軽い口調と共に、ランは背中にある蝙蝠を思わせる羽根を遊ばせた。
快楽の為に生まれ、享楽のために生きることを目的とする淫魔の一族に連なる少女は夜空を見上げた。眠たくなったら温かいふとんの中で寝て、食べたい時に食べたい物を食べて、遊びたい時に遊ぶという素晴らしくも怠惰な日常が打ち切られたのは、今朝のことであった。
『いつまでそうしているの! いい加減、男を咥えこんできなさい!』
『だ、だって……』
『だってじゃありません! もういい年なんだから、自分で精気を集めてきなさい。一人堕とすまで、うちには入れませんから!』
要するに、いつまでも淫魔としての務めを果たさずにずるずると引き延ばしていた怠惰な生活に対する母親の怒りが発火点を越えて、あえなく家から追い出されたということなのだが、ため息の下人はそればかりではない。
「……みんな大人になっちゃったなぁ」
とりあえず久々に家から出たものの、人間世界に
その立ち話はとくに何事もなく終わったものの、二人が去った後のランに残されたのは胃袋の中に石を詰め込まれたような感覚であった。
なんかね、もう、違うんですよ、顔つきとか、話し方とか、仕草が全て。
久しぶりに会った同級生達は、自分が為すべき事を為し、果たすべき事を果たした者のみが持つ自然な自信に溢れていた。向こうは優越感など
やっぱり帰ろうかなぁ。土下座すればお母さんだってさすがに家に入れてくれるだろうし。
よし、と立ち上がる。
うん、そうしよう。いきなり動くのは良くない。動いたところで失敗するに決まっている。ここは一度帰り、ちゃんと予定を立て、事前に慎重な調査を行い、万全の備えをしてから淫魔の務めを果たすべきだ。
よーし、それじゃあ帰ろうかぁ! と元気に後ろ向きな思考を走らせたランは大きく伸びをして足元を見た。
見て、見つけてしまった。
眼下の道を行く二人の少年。背の高い方はしっかり者さんの見本のような瞳の持ち主で、どう考えても堕とすのは不可能。
目が行ったのはもう一人の少年だった。
「……ちょろそう」
あれならかなり簡単に、というか余裕でいけるんじゃないかな、と思った次の瞬間に足は屋上を蹴っていた。
自分の帰る場所ではなく、背の低い方の少年を追って。
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