金魚の檻

イマイチ

第1話

 校舎裏の中庭に死体を埋めた。


 日当たりのいい中庭には綺麗な花壇の他に、一年生から六年生までそれぞれ違う野菜を植えている畑がある。私たち六年生は枝豆を植えていて、家庭科の調理実習で豆腐を作る事が決まっていた。

 畑の縁石に沿って歩いていくと、一年生の朝顔の鉢植えが等間隔に並んでいる。六月初め、ようやく双葉が顔を出し、葉を増やし始めているところだ。これからどんどん成長していくのを見据えて、青い棒五本と黄色い円形のパーツ四つを組み合わせた六十センチ程のプラスチックの支柱で囲われていた。まだ十センチにも満たない朝顔を閉じ込めるには大袈裟な檻だと思った。


 トイレの個室で時間が過ぎるのを待つ。昨日図書室で借りた乱歩の短編集はとても面白かった。中でも『蟲』ほど蠱惑的な物語はないと思う。

 そういえば一年生の時、朝顔のツタをドーナツ状に纏め、リボン等でデコレーションしてクリスマスリースを作る授業があった。私は先生のリースを一緒に飾り付けていた。私の朝顔は水のあげ過ぎで花が咲く前に枯れてしまったからだ。

 人の声が賑わってきて腕時計を見る。いつも通りの時間になったら教室に向かうことにしよう。


 1


『金太郎は殺された』


 六年二組で飼っている金魚の水槽に紙が貼り付けられていた。文字は手書きではなかった。

 教室の後ろの棚に置かれている水槽の周りに人が集まっている。登校してきたクラスメイトが水槽の前に立つ生田 和也いくた かずやの声に引き寄せられ、人の円を一層厚くした。

 水槽には知らん顔で泳いでいる金魚が十数匹、水面にぷかりと浮いている金魚が一匹。

「やっぱりさ、伊那がやったんだろ」

 和也の声につられ周りが一斉に一人の女子生徒を見る。

「わ、私は…そんな事…」

 伊那 南里いな なんりは周りから刺さる視線に耐えられず俯いた。耳より下の二つ結は彼女の印象を幼くしている。南里の弱々しい態度に、和也は確信を持ったように話を進めた。

「だってお前金魚当番じゃん。下駄箱、覚えてるけど俺より早く来てたのお前だけだしさぁ、金太郎を殺しちまって他の奴に責任擦り付けようとこんな事したんだろ」

 和也は野球の朝練で早く学校に来る。その野球で日焼けした腕で大袈裟に身振り手振りをした。

 確かに南里は早く来ていたが、教室に寄る前に中庭の花壇の様子を見に行ってたのだ。それで教室に向かった時には、すでに和也に疑いの目を向けられていた。

 野次馬は人気者の和也の自信ありげな推理と、内気な南里の戸惑う様子を天秤にかけ、無意識に南里に疑いの目を向けた。

「南里が犯人って決まってる訳じゃないでしょ。てゆーか、何のためにこんな事するわけ?」

 瀧 梨々香たき りりかが外野から響く声で遮った。ピンクのシュシュで飾られたポニーテールが左右に揺れる。

「注目浴びたいからとか?何にせようちの金魚殺したんだとしたら許さないんだけど」

 金魚は梨々香が家から持ってきて一組と二組で飼っている。梨々香は縋るような目線を向けてきた南里を睨んで教室にそう吐き捨てる。梨々香に南里を助けようとする意思は無かった。

「和也がやったんじゃないのぉ?そんな騒いでさぁ」

「なっ…」

 くすくすと笑う梨々香に、むっとした顔の和也が身を乗り出す。二人はクラスの男女のリーダー的存在でよく言い争っている。今に反論しようと和也が大きく息を吸ったその時

「おはようございます。六月三日金曜日。今日も一日―……」

 丁度朝の放送が始まった。群がってた人達がちらほら自分の席に戻ってからも話題は続いていた。先生が教室に入ってきてもこの事は誰も話さなかった。面倒事をまともに取り合ってくれるタイプでは無い事を皆知っていたからだ。

 南里は居心地が悪かった。今もクラスメイトから疑いの目を向けられている気がする。いや、確実に向けられている。何人かの生徒が南里に目を向けた後、ひそひそと秘密話をしている様子が見て取れた。

 昔からこうだ。臆病な性格が悪事を隠蔽しようとしてるように見えるのか、騒動が起こった時は真っ先に疑われる。元々臆病な性格なのか、疑念の視線を浴びせられた結果のこの性格なのかもはや分からない。周りの視線の圧に、南里は元々周りより小さい背中を更に縮こまらせた。

 各々が宿題を提出したり朝読書の準備をしている中、後ろの扉が静かに開いた。金太郎殺しの騒ぎで浮かれている教室の様子を気にすることもなく、倉木 くらき はくは一番後ろの窓側、水槽の目の前の自分の席まで歩いていく。

 金魚達は水面に浮かぶ仲間の死骸を気にすることも無く優雅に泳いでいる。

 いつの間にか水槽の貼紙は無くなっていた。


 2


 給食は切り干し大根と卵焼き、それに豚汁だった。

「どうしよう…はくちゃん…」

 昼休み、教室横の階段に南里と狛は座っていた。湿度の高いコンクリートの階段の大部分には青濃い影が落ちている。

「南里は殺してないんでしょ?」

 眠たそうな目の狛が訊ねると同時に窓から吹き込む風で狛の髪がふわりと靡く。カラスの羽みたいな黒髪は、寝癖はつけどくせっ毛ではないからか、目にかかる前髪も首程の長さの後ろ髪も、風に遊ばれた後は綺麗に収まった。

「うん…そんな事、出来ないよ…」

「なら堂々としてればいいと思う」

「そう、なんだけど…」

 脚を抱えた南里は白のワンピースに口元を押し付け、自信なさげに呟く。

「前も…私がちゃんと言えなくて梨々香ちゃんに…」

 去年、梨々香のお気に入りの消しゴムが無くなり、次の日何故か南里の筆箱にその消しゴムが入っていた事件が起こった。勿論南里は盗んでないが、彼女の取り巻きを刺激してしまったらしい。その結果女子が南里を遠敬する嫌な雰囲気が暫く続いていた。

「私は南里の味方だよ」

 狛がそう言った時、影の落ちる階段に座り込む二人の前の廊下を黒縁眼鏡をかけた男子が通りかかる。

「あっ、文秋くん」

 クラスメイトの市川文秋いちかわ ふみあきは二人に気づくと、一瞬その場で立ち止まり躊躇う様な仕草を見せたが、微笑みながら近づいた。

「あの…金魚、ごめんね」

「えっ、本当に伊那さんがやったの?」

 文秋は柔和な顔付きながら大袈裟に目を見開いてみせた。蒸し暑いからか、紺と白のストライプの長袖は肘まで折り返されている。

「ちが、違うけどっ…!文秋くんが一番金魚お世話してたから…」

「あー、うん…金太郎が死んじゃったのは悲しいけど…」

 六年二組では金魚を十五匹ほど買ってる。その殆どは夕日のような一色の金魚だが一匹だけ、綺麗な黒いハートの模様が付いた金魚がいた。それが金太郎だ(その他の金魚に名前はついていない)

「そうだ、倉木さん。冬馬が倉木さんに折り紙を教えて貰ったの喜んでたよ。ありがとう」

 話題を変えるように文秋は手の甲で眼鏡を押し上げながら狛に笑いかけた。

「うん。美晴も冬馬くんと一番仲良しだって言ってた」

 冬馬と美晴は今年保育園年長になった二人の弟と妹だ。冬馬は好奇心旺盛で、美晴に折ってあげた折り紙を見て俺にも教えて、としつこくねだられたことがあった。

 文秋が話しながら数段登った階段をジャンプで降りる。

「それじゃあ僕、歯磨きしにいくから」

 文秋は手に持った歯磨きセットを持ち上げてみせた。

「引き止めててごめんね」と言った後、南里はふと、立ち去ろうとする文秋を呼び止めた。

「あれっ、文秋くんコップ変えた?」

 前まで人気のアニメキャラクターがプリントされたコップだったが、今文秋が持っているのは青の半透明の無地のコップ。南里は文秋とよくそのアニメの話をするので記憶に残っていた。

 振り返る文秋は僅かに眉をひそめた後、困ったように笑った。

「弟が落として割っちゃったんだ。結構お気に入りだったんだけどね」

 影の落ちる階段。窓からひやりとした風と校庭でドッジボールをする声が聞こえてくる。


 3


 南里と狛が教室に戻ると水槽の前に居る梨々香とバッチリ目が合った。嫌悪感を隠すことも無くズカズカこっちに向かってくる梨々香に、南里は思わず一歩下がる。

「あんた達、名前ペンゴミ箱に捨てた?」

「えっ」

 てっきり金太郎の事について責められると思ってたが、予想もしてない質問に南里は目を見開いた。

「いーから質問に答えて。捨てたりしたの?」

「いや…捨ててないけど…」

 南里が答えた後、狛も続けて「私も」と呟く。

「ふーん、あっそ」

「あの…なんかあったの?」

 おずおずと尋ねる南里を横目に、梨々香は打ち明けるか躊躇う様子を見せるも、眉間に皺を寄せて続けた。

「…掃除の時、ごみ捨て当番だったんだけど名前ペンが捨ててあった。気のせいかもしれないけど濡れてたのと…なんか金魚臭い感じがした」

 勘繰りすぎなのか、何か関係があるのか、難しい顔をした梨々香が首を捻る。そんな中、梨々香の後ろから窓際に寄りかかる女子が「南里さんがやったんじゃないんですかぁー」「私もそうだと思いまぁす」と間延びした声を飛ばした。

 くすくすと笑う三人組は梨々香と同じバスケ部。南里が反論する声も出ずギュッと両手を握っているのを狛は横目で見る。「気にしなくていい」、声を掛けようとした時、その女子達の倍以上の声量の通る声で

「バカ丸出しやめて。てかどーでもいいからうちらドッジ混ぜてもらいに行こ。やっと晴れたんだし」と聞かせる為の大きな溜息をついた後、梨々香が言い放った。今日は三日ぶりの快晴でグラウンドの調子も良かった。彼女の鶴の一声に、取り巻き三人は楽しそうに話しながら、二人の事なんてもう見えてないみたいに横を通り過ぎ教室から出ていく。三人に続いて立ち去ろうとする梨々香に、南里は狭くなったような喉を振り絞って呼び止めた。

「あ…っ、あの、梨々香ちゃんっ…ありがとう…」

 梨々香が二人の横をポニーテールを靡かせ通り過ぎる。南里に向けたイラついた視線でそのまま狛を流し見る。

「…保護者、しっかりしな」

 狛は梨々香の目を見つめ返した。綺麗な茶色の瞳だなと思っただけで、梨々香の言葉に特にいい反応も思いつかない。

 彼女達が去った後、自然と二人は金魚の水槽の前まで脚を進める。金太郎が浮かぶ水槽の中を行き交う口をパクパクさせている金魚達を見て、そんなにお喋りなら金太郎を殺した犯人を教えて欲しいなぁと南里は思った。


 校庭で飛び交うボールに目線が動かされながらも、梨々香が考えてるのは南里と狛の事だった。南里の事を嫌っている訳ではない。ただ、見てるとイライラする。「NO」と言わない事が自己防衛なんかじゃない。そうやって勘違いしたまま仕舞いには狛に守られている。そういう所が癇に障るのだ。

 正直、苦手という感情では梨々香は南里より狛の方が苦手だった。感情をあまり顔に出さず、いつも眠そうな目で南里と一緒に居るので同じタイプかと思っていたが、基本的には何に対してもこだわりを持たないぼやっとした人。普段から女子特有のグループで行動する訳でも無い。多分クラスメイトに興味が無いのだろう。クラスメイトを風景のようにしか思っていないのだ。

 あぁ、でも南里とは本当に仲が良いような気がする。

「あーっ!梨々香!」

 クラスメイトの声ではっと我に返る。その瞬間正面から投げられたボールをほぼ条件反射でキャッチすると、わぁっと歓声が上がった。

「危なっ、ギリセーフ!」

 後ろによろめきながらも、空気がぱんぱんに入ったボールの砂を払う。何度も校庭にバウンドして砂埃まみれだ。バスケットボールよりも柔らかく、片手でも掴みやすい。そのまま相手の内野を狙おうと構えたが、ボールが回ってこなくて退屈そうな同チームの外野が目に入り、ワンバンでそいつらにボールを回した。

 すかさず相手が体制を整える前に、同じバスケ部の外野が足元にボールを放つ。見事一人に命中し、こっちに戻ってきたので「ナイスー」といいながら片手でハイタッチをする。

 そうだ、昼休みはまだ十分も残っている。


 4


 五時間目は図工の授業。席を移動したり話しても比較的注意されず、教室内は話し声で賑やかだった。南里も狛の席に椅子を持ってきて話しながら作業していた。今は『将来の夢』というテーマで、木の土台に立てた針金に紙粘土で肉付けして色を塗り、人の模型を作っている。

 南里は周りを見回した。サッカー選手、消防士、パティシエ、大工さん…。文秋くんは漫画家、梨々香ちゃんはバスケットボール選手。

「狛ちゃんは…ペットショップの人?」

「いや、本がいっぱいある家で猫を飼う人」

 椅子に座って本を読みながら猫を膝に乗せている模型。床にも一匹猫が丸まっている。まだ色は塗っていないが、人より猫の方が大分凝って作ってあるのがわかった。

「お仕事じゃなくてもいいの?」

「分かんない。けどなりたい職業とかないから」

 狛は猫を人の膝に乗せてサイズ感を確認しながら問いかける。

「まだ決まってないの?」

 南里の土台には何となく人の形が作られた針金があるだけだった。

「将来の事とか…全然わかんない」

 狛は手は止めず一瞬だけ目をやった後、「じゃあ、南里も同じ夢にしよう」と小さいながらはっきりした声で言った。

「猫一匹あげる。南里も好きな物に囲まれて猫飼う夢にすればいいよ」

 そういいながら床に丸まってた猫を持って南里の土台に乗せる。消しゴム位の大きさの猫を見ながら、素敵なお誘いだな、と南里は思った。

「…そうしようかな、狛ちゃんと一緒に住むのも楽しそう」

「いいね」

 狛が満足そうに少しだけ口角を緩ませた。南里はたまに見せてくれる狛の笑顔が大好きだった。


「おい」

 横から声をかけられ、びくっとした南里がそちらを見上げると生田 和也が立っていた。

「か…和也くん?」

 和也は何も言わずに隣から椅子を引っ張ってきて背もたれを前にどかっと座り、二人が作ってるものを見た。南里はようやく針金に紙粘土をくっつけ始め、狛の方の猫はもう色が塗られている。和也がその猫に触ろうとするとぱっと狛がその手を掴んだ。

「まだ乾いてないから触らない方いい」

 急に手を掴まれて和也は呆然とするも、掴まれたままの手に気づいて慌てて振り払う。ほんのり頬が赤い気がする。

「…俺、考えたんだよ。」

 わざとらしく大きく咳をし、椅子の背もたれに組んだ腕を乗せて、動揺を取り払った真面目な顔で言う。

「金太郎殺人…いや、殺害事件の事。誰かが伊那に罪を擦り付けようとしてるんじゃないかって」

 狛は随分大仰な名前がついたもんだな、と狛は少し面白かった。

 二人の反応を見ながらも和也は続ける。

「俺が犯人だったらって考えたんだ。金太郎を殺してしまったらどうするか」

 人差し指を揺らし名探偵にでもなったような口振りに、南里は固唾を飲み、狛は特に変わらず和也を見る。

んだよ」

 和也が一文字ずつ、強調して言った。

「金太郎がああやって浮かんで死んでても殺されたなんて誰も思わない。夜のうちに寿命か病気かで死んだと思うだろ。そう思わなかったのは怪文書があったからだ」

 その怪文書は今はもう剥がされている。誰が剥がしたのかは分からない。

「学校に早く来るのは朝練がある俺ら野球部とバレー部と…あとバスケ部もか。それ以外は金魚当番。そっから思いついた」

 和也は得意げに笑ってみせる。

「まずわざと俺に、俺以外でもいいが怪文書と金太郎を見つけさせる。そっから最初に疑われるのは金魚当番のやつ…今日で言う伊那だ。伊那を犯人に仕立てあげたい真犯人にまんまと誘導されてたんだ」

 並べられる言葉に呆気に取られていた南里が問いかける。

「えっと…じゃあ真犯人は?」

 得意げだった和也の顔が分かりやすく歪む。

「知らねーよ。俺は伊那が犯人じゃないって思っただけだ。あと…」

 座ってた椅子を戻しながら、何か言いたげに言葉を詰まらせた。

「朝…皆の前で責めたの…すまん」

「えっ、いや…全然大丈夫だよっ」

 急に謝られて焦ってフォローする南里を見ると、和也は坊主頭を掻きながら自分の席に戻り、何事も無かったようにクラスメイトの会話に入っていった。

 和也の後ろ姿を追うと机の上の制作物が目に入る。てっきり和也の夢は野球選手かと思ったが、作っているのはスーツ姿のサラリーマンだった。

 南里は和也の話を思い出す。私を犯人に仕立てあげたいのは何故だろう。そんなに嫌われるようなことをしてしまったのだろうか。

 狛は色の塗られた猫を手のひらに乗せた。絵の具はとっくに乾いていた。

 身体を捻り後ろを向いた。水槽に金魚が泳いでいる。そこが世界の全てだと思って自由に泳ぐ金魚は愛おしく見える。四方に泳ぐ金魚の数を数える。

 潮時かな、と思う。


 5


「今日の朝、金太郎が死んだ状態で見つかった。水槽には『金太郎は殺された』っていう貼紙。まず南里が疑われた。今日の金魚当番だったから」

 狛は簡潔に事件の概要をまとめた。

 茜色の細長い雲が列を成す空が窓から見える。抑揚のついた野球部の外周の掛け声が、三人だけの教室に染み渡っていた。狛は無造作な前髪の隙間から相手を見て続けた。

「最初に考えたのは南里が本当にやったってパターン。これはすぐ没。推理も何も無いけどそんな事出来ないと思うから」

 南里が申し訳なさそうに目を伏せる。

「次に五時間に和也が言った事。金太郎が死んだとしてもわざわざあんな貼紙をする必要なんてない。放っておけば誰も殺されたなんて思わない。じゃあはどうか。金太郎を殺した人と、貼り紙をした人は別だと考える。金太郎を殺した人をA、貼り紙をした人をBとする。BはAが金太郎を殺した所を見ていた。それをAに伝える為にあんな怪文書を貼ったんじゃないかな。俺はお前がした事を知ってるぞ、とでも言うように」

 狛はゆっくりと歩き水槽の前で足を止めた。

「そして梨々香が水に濡れた名前ペンが捨てられてたと言っていた事。金太郎は黒いハートの様な模様があった。これは推測でしかないけど…Aは金太郎を水槽に戻せない理由があって、仕方なく犯人は他の金魚に黒の油性ペンでハートの模様を描き、金太郎の代わりにしようとした。今はこの事件で注目が集まってるけど、普段皆は餌やりも忘れる位興味無いから偽物の金太郎でも気づかないだろうね。証拠に金太郎抜きで十四匹居るはずの水槽の金魚が、一匹足りない」

 泳ぎ回る金魚に苦戦しながら南里が指折りして数えると、確かに十三匹しかいなかった。

 Aの輪郭を汗がつたう。今日は蒸し暑かったがもう夕方なのもあり、教室に循環する空気は肌寒いくらいだ。

「それでAがなんで自分だと思うのか、って顔をしてる」

 Aの表情を読み取った狛は金魚を眺めながら答えた。

「お昼に話した時、君の袖から金魚の匂いがしたからだよ。腕をまくって隠してたみたいだけど、梅雨の時期だとそう簡単に乾かなかったんだろうね。それにあのコップ。前使ってたキャラのコップは子供用のプラスチックの物、落としたってそう簡単に割れない。あとは…下駄箱に置けない靴の隠し場所とかも話したら証拠になる?」

 今まで狛の話を俯きながら黙って話を聞いていた市川文秋は、手の甲で眼鏡をゆっくりと押し上げた。


 6


 文秋が話した事を要約するとこうだった。

 文秋の弟、冬馬が急に「お兄ちゃんの学校にはハートの模様の金魚がいるんでしょ?見たい!」と言い出し駄々を捏ね始めた。一度言い始めたら譲らない性格の弟に金太郎を見せるために、昨日の放課後、内緒で歯磨きのコップに掬って持ち帰る。金太郎を見て満足そうな弟。明日早くに学校に行って、バレないうちに水槽に戻せば大丈夫だと文秋は考えた。

 ところが朝起きると金太郎が動かない。ちゃんと餌もあげていたのに金太郎は死んでしまっていた。どうして…いや、どうしよう、金太郎を勝手に持ち出し、挙句の果てに死なせてしまったことがバレたら…。

 そこで文秋は朝一番に学校に行って自然死したように見せようと水槽に金太郎を戻そうとした。

 しかし、荷物を教室に置いて下駄箱の靴を空き教室に隠していたら、袋に入れて持ってきたはずの金太郎が無い。誰かに盗られた。文秋は頭が真っ白になって、苦肉の策で金魚を一匹掴みだし、油性ペンでハートの模様を描いて水槽に戻し、トイレで時間が経つのを待った。

 問題はまだ続く。ある程度時間が経って教室に戻ると水槽に『金太郎は殺された』の貼紙、南里が和也に責められている状況、そしてよく見ると水槽に浮いているのは盗まれたと思っていた本物の金太郎で、文秋が模様を描いた偽金太郎は居なくなっていた。


「Bは僕を陥れたかったんだと思う。でも結果的に伊那さんが疑われてしまって…僕が全部正直に言えばよかったんだけど、本当にごめんなさい」

 言葉に詰まりながら話し終えた文秋は深く頭を下げた。

「いや…文秋くんが謝らないで。それよりBが誰かの方が…私は気になる、かな」

「僕もそれが知りたい。Bに何か悪い事をしてしまってたのなら…謝りたいし」

 二人が同じ意見を示し合わせた後、同時に狛を見た。狛はそれに少しだけ嫌そうに眉をひそめた。

「私は神様じゃないし全部知ってるみたいにきかないで。けど」狛は右手を口元に当てる「梨々香が一番怪しいと思ってる。バスケの朝練で一番早く来てるし、あと」梨々香は文秋の事が好きだから、文秋と仲の良い南里への当てつけのつもり、と口に出そうとしてやめた。

「私が梨々香に聞いてみる。南里と文秋が聞いても刺激するだけだから。…もう過ぎたことより金太郎をいつまでも放置してないでどうにかした方がいいと思う」

 狛の言葉に文秋がハッとしたようにぷかりと浮かぶ金太郎を掬いあげると、畳んだティッシュにそっと乗せた。

「僕が責任もって埋葬するよ」

「あ…私がおじいちゃんに頼んでみようか。お寺の住職だから」

 南里は以前飼ってた猫が寿命で亡くなった時に、狛のおじいちゃんがお経を読んだりしてくれたのを思い出した。

「それじゃあ…倉木さん、お願いします」

 文秋はティッシュに包まれた金太郎を手渡した。

「うん」

 何となく気まずい空気が流れる。それを断ち切るように南里が一度手を叩いた。

「そ、そろそろ帰ろう。もう五時だ」

「そうだね、僕、先に帰るね。明日…は土曜日だから月曜日、皆にちゃんと本当の事言って謝るから」


 7


「文秋くんはなんでクラスの皆に向けて謝るんだろう」

 帰り道、南里がぽつりと呟く。回答が欲しい訳じゃない独り言だ。

「…私、また狛ちゃんに助けられちゃった。狛ちゃんが居なくてもちゃんと出来るように頑張らないと」

 南里はぎゅっとランドセルの肩紐を握りしめながら、自分の不甲斐なさに呆れていた。

「頑張らなくてもいいよ」

「え?」

「私が南里が困った時は助けてあげるから、そのままでいいよ」

 南里は困った様に笑った。

「そういう訳にもいかないよ。狛ちゃんに嫌われたくないもん。あ…今日はお迎えの日だっけ?」

 交差点に着くと、歩行者用信号のボタンを押す南里が狛に問いかける。

「…うん」

「じゃあここでバイバイだね」

「うん、またね」

 信号が青に変わり、急いで横断歩道を渡った南里が振り向いて大きく手を振っている。

 夕日が染み込んだ南里のワンピースはまるで金魚みたいだった。


 保育園に着くと、砂遊びをしていた美晴が直ぐに気づいて満面の笑みでこちらに駆け寄ってくる。

「見て!お城!」

 砂だらけの手で指さした先には、型抜きで作ったであろう砂のお城がたっていた。

「凄いね。服汚れちゃうから先に手洗ってきな」

 そんなやり取りをしている美晴の後ろから走ってきたのは、一緒にお城を作っていたらしい冬馬くんだ。

「美晴のおねーちゃん!」

 美晴と同じく砂だらけの手を握り締めながらキラキラとした目で言い放つ。

「ありがとう!昨日ね、ハートの金魚ちゃんと見れたよ!」


 8


 靴で比較的柔らかい土を寄せると、土に塗れた金魚の死体が一匹顕になる。その上に重ねるようにハートの模様の金魚の死体を投げ入れると、靴で土を被せて均す。今日は土曜日なので昨日のように人目を気にすることも無い。

 南里が私だけを頼ればいい。クラスから孤立すれば自然とそうなると思った。誤算だったのは梨々香も和也も思ったよりも平等に物事を判断するタイプだった事だ。

 冬馬にハートの金魚の事を教え文秋を誘引した事、夜に綺麗な水に入れ替えた方がいいと冬馬に嘘をついた事、皆の興味を引くような貼紙も全部無駄だった。ずるずるつまらない状況が続くよりは、救世主になった方が得だと思った。消しゴムの時みたいに取り巻きを刺激できると思ったが…そういえばあの時も周りを落ち着かせたのは梨々香本人だった。素晴らしい人格者で結構なものだ。

 等間隔に並んだ支柱に囲われた鉢植えの朝顔を見る。これからもっと成長して外へと逃げたがる朝顔には心許無い檻だと思った。

 透明な水槽を泳ぐ金魚は、そこに壁があることに気付いているのだろうか。

 気付かない方が幸せだと思う。

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