第137話「凍結領域」

 目を覚ますと、世界は相変わらず色が抜け落ちたかのように真っ白だった。荘厳なアーチの連なる天井をぼんやりと見つめているうちに、少しずつ状況を思い出す。はっとして目を大きく開いた時、ぬっと視界の端からアヤメの顔が現れた。


「お目覚めになりましたか」

「アヤメ……。君は大丈夫?」


 ヒイラギが盾の固有シーケンスを発動した直後、アヤメも力を失い崩れ落ちていた。あれからどれほど時間が経ったのだろうか。彼女の顔色はよく分からないけれど、どうやら正座して太ももの間に僕の頭を載せているようだった。


「問題ありません。一時的にマギウリウス粒子の欠乏反応が発生しましたが、すでに回復しております」

「欠乏反応?」


 ヒイラギが銀幻蝶に何かをした直後、僕も凄まじい窒息感に襲われた。空気が全て消え去ったかのような息苦しさ。あれは、魔力が消えた時のものだったのか。


「ヒイラギの持つ特殊破壊兵装〝凍結封殺の氷壁盾〟の固有シーケンス〝封絶の波紋〟によるものです。あれは、周辺一帯のマギウリウス粒子を全て消費し、対象を凍結させるものですので」

「そっか……」


 言っていることはなんとなくしか分からない。

 話しているうちに力も戻ってきて、よろよろと上半身を起こす。アヤメが背中を支えてくれて、僕は周囲を見渡すことができた。

 世界が真っ白になっていたのは、一瞬にして厚い霜に包まれたかららしい。手近な床をそっと撫でると、サラサラと氷に跡が残る。


「すごい威力だね……」


 廊下の中央に氷像があった。いや、体の中心まで凍りついた銀幻蝶だ。素早く動く彼が逃げる暇さえ与えない瞬間凍結は凄まじい。

 氷像に近づき、細い脚にそっと触れる。すると、驚くほどあっけなくポロポロと小さな欠片となって砕けた。


「凍結したことで組織が非常に脆弱になっています。今なら、素手でも握り潰せるでしょう」


 アヤメが銀幻蝶の翅を軽く指先で弾く。たったそれだけで、芸術的な美しさもある翅がサラサラと溶けるように形を失った。


「これでも、かなり威力は絞りました」


 銀幻蝶の氷像に触れるのも惜しんでいると、ヒイラギがやってくる。


「完全展開の盾があれば、発動時間さえ稼げれば大抵の魔獣を無力化することができます。こうなれば、駆除も容易でしょう」


 ヒイラギは歴代のギルド長と共に、定期的に迷宮内の魔獣の駆除を行っていた。その際に猛威を振るっていたのが、盾による瞬間凍結だったらしい。


「ヴィソカーヤたちが斧を振り回せて牽制している間に、ヒイラギが盾を展開する。時間さえ稼げれば、勝てるという寸法らしい」


 戦斧を担いだヴァリカーヤが、しげしげと氷像を見つめながら言う。

 時間を稼ぐことができなければ〝封絶の波紋〟は発動できず、〝封絶の波紋〟がなければ魔獣を倒せない。だからこそ、オギトオルクのギルド長とヒイラギたちは手を組んだ。両者はお互いの欠点を補いながら、迷宮を守り続けてきたのだ。


「とはいえ、こうなってしまえば魔獣の素材を得るどころの話ではない。それに熊獣人でなければ相方は務められない」


 氷像は軽く触れるだけで砕けてしまう。銀翅どころか、魔石さえ手に入れることはできないだろう。

 そして、〝封絶の波紋〟には周囲のマギウリウス粒子――つまり魔力を根こそぎ消滅させてしまうという欠点があった。アヤメのようなハウスキーパーは当然動けなくなるし、僕も多少は持っている魔力が急激に消えて、気を失ってしまう。その反動に耐えられるのはヒイラギ本人と、生来的に魔力をほとんど持たない獣人族のヴァリカーヤだけだった。

 そういった意味では、ヒイラギとオギトオルクへ移り住んだ熊獣人たちとの出会いは奇跡と言っていいだろう。


「……ヴィソカーヤも、その戦斧を用いて魔獣フロストウルフを抑えていました。その間に私が〝封絶の波紋〟を発動する手筈になっていたのですが、間に合わなかったのです」


 ヴァリカーヤの母親も、そうして影ながら戦っていた。彼女の死に際を目の当たりにしたヒイラギは、今も悔恨の残る表情で苦しげに語る。


「母さんは一人で死んだわけじゃないんだろう。探索者なら、いつか迷宮で死ぬのが本望だ。それが仲間に見届けられたなら、最良の最期だろう」


 ヒイラギの肩に手を置き、穏やかな声でヴァリカーヤが言う。

 ヴィソカーヤは非業の死を遂げたわけではない。そのことが分かっただけでも、十分なのだ。


「はぁ、はぁ……。なんとかなった……。うわ、なによこれ!? 真っ白じゃない!」


 氷像が少しずつ形を失っていくのを見届けていると、扉が開いて疲労困憊のヒマワリがユリの肩を借りて出てきた。どうやら、コアの修復もつつがなく終わったらしい。


「おかえり、ヒマワリ。ユリもありがとう」

「まったく、わたしがいなかったらあと数百年で壊れてたわよ、あのコア」


 迷宮を管理するハウスキーパーの人手が足りず、コアも劣化していた。ヒマワリの修復によって、またしばらくは安定的に稼働するようになるだろう。


「隊長!」


 ヒマワリたちの背後から、また新たな声がする。現れたのはヒイラギと全く同じ容姿をした青髪のハウスキーパーたちだ。三人とも暖かそうな防寒仕様のメイド服に身を包み、総じて満身創痍のボロボロ具合だ。

 彼女たちは廊下を染める霜と、中央で溶けつつある銀幻蝶を見て、あっと声をあげる。


「もしかして、この方が……」

「ええ。この方が新たなマスターです」


 おずおずと尋ねるハウスキーパーに、ヒイラギは頷く。ヴァリカーヤは戦斧を握り、懐にしまっていたブレードキーを掲げる。


「ヴィソカーヤ・コロンナーの娘、ヴァリカーヤだ。まだまだ若輩者で、知らないことも多いが……これからもよろしく頼む」

「はいっ! こちらこそ、よろしくおねがいしますっ」

「さ、早速ですが私たちともマスター契約を……」


 全員がアヤメやヒイラギと同じような性格なのかと思ったけれど、そう言うわけでもないらしい。同型機とはいえ、多少の個性は現れるのか、無邪気に新たなマスターの登場を喜んでいる。


「これから二十二人のマスターになるんだよね。大丈夫かな?」

「問題ないでしょう。これまでも、そうして受け継がれてきたようですから」


 早速、ヒイラギ隊のハウスキーパーたちにマスター契約を迫られてヴィソカーヤがたじろいでいる。少し不安になったけど、アヤメは心配もしていないようだった。

 これまで連綿と繋がれてきたギルド長の密約が、無事に継承されたのだ。


「ヤック様、少しよろしいでしょうか」


 三人娘に追いかけられているヴァリカーヤを眺めていると、ヒイラギが真面目な顔でやって来た。一件落着と思っていたけれど、まだなにかあるらしい。


「我々は、これからもここで収容品を保管する責務があります。ですので、ヤック様たちに同行することできません。その上で、ぜひ頼みたいことがあるのです」


 そう言って、彼女は一枚の紙を取り出した。

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