第129話「静寂の迷宮」
真ん中のすり減った石段を慎重に降りていく。雪が染み込んで滑りやすくなっているのは気を付けなければならない。
迷宮の中は外界とは雰囲気が違う。ぴんと張り詰めるような緊張感が空気に現れて、僕は無意識に口の端を引き締めていた。
「マギウリウス粒子濃度の上昇を確認。迷宮で間違いありません」
ここが〝銀霊の氷獄〟であることは、アヤメ達も証明してくれる。彼女達は迷宮に充満する魔力を察知することができるのだ。
「とはいえ、まだ完全体にはなれそうにないわね」
「混乱の元になりますから、控えなさい」
迷宮内部へと入れば、アヤメ達は外部にいる時とは比べものにならないほどの力を発揮できるようになる。第二世代ハウスキーパーであるヒマワリに至っては、さらに濃度が濃い場所では急成長を遂げる。とはいえ、今回はヤブローカ達もいるということで、ひとまずは少女の姿を保ってもらうことにしていた。
「ここから先は魔獣がいつ出てきてもおかしくねぇ。気を付けろよ」
「ヤブローカは後ろに下がってて」
アトリーチも真剣な表情だ。〝銀霊の氷獄〟は雪の降っていた地上よりも更に冷たい空気に満ちている。白い息で唇が震え、剣を持つ手もかじかむ。なるほど、外部から来たばかりではまともに戦うことも難しいだろう。
そう考えると、一月かけてここの土地に慣れたのは功を奏したと言ってもいい。
「閉鎖といいつつ、施錠されているわけではないのですね」
「蓋を閉めて雪に埋めれば、誰も見つけられねぇからな。わざわざそんなことをする必要はないのさ」
案外あっさりと入れたことが意外だったのか、ユリが言う。アトリーチの返答も尤もなものだった。
「でも、思ってたより静かだ。魔獣の気配も薄い」
注意深く奥を見ながら、状況を分析する。ギルドによって迷宮が閉鎖されてから半年ほどが経っているにも関わらず、一階層の入り口付近は落ち着いている。飢えた魔獣がいきなり襲いかかってくることも覚悟していたのだけど。
「二階層へ向かいましょう。奥へ続く道があるはずです」
「やっぱりそうなるのか」
アヤメの提案にアトリーチは眉を寄せるが、それ以外に道はない。やはり〝銀霊の氷獄〟が二階層だけの小迷宮とは思えない。
「ヤブローカ?」
「大丈夫だ。進もう」
静かだったヤブローカを見やると、彼も歩き出す。ポードが慣れない迷宮に神経を逆立てている以外は、皆冷静だった。
ギルドで情報を集めて地図を作れたらよかったのだけど、そんなものはない。代わりに僕らにはアトリーチがいる。彼は鉈を握りしめたまま、慎重に先導してくれた。
「階段はこっちだ」
「行こう、アヤメ」
「はい」
魔導灯の光を灯し、薄暗闇の迷宮を進む。一歩奥へと入るほど、冷気は強く染みてくる。防寒具があっても辛い寒さだ。肩を震わせていると、アトリーチが懐から何かを取り出す。
「これを噛んどけ。飲み込むなよ」
「これは?」
手のひらに落とされたのは、小さな赤い木の実だ。言われるままに奥歯で噛み潰すと、強い酸味と辛味が口の中に広がる。全身の毛穴が開いて汗が噴き出すような刺激で、思わず口を抑える。
「寒気払いだ。噛んでおけば寒さも忘れるだろ」
「そ、それはそうかもしれないけど……」
これも現地の知恵なのだろうか。あまりにも力技だけど。
ともかく、謎の木の実のおかげで寒さは気にならなくなった。そうなると、他のことが気になってくる。
「ねえ、アトリーチ。いくらなんでも静かすぎない?」
「そうだな……。いつもならこの辺に来るまでに三戦くらいはしてるはずだが」
迷宮の中は相変わらず極寒だ。しかし、魔獣の気配が不自然なほどしない。〝銀霊の氷獄〟はこういうものなのかと思ったけれど、アトリーチも違和感を抱いているようだった。
「アヤメ、何か気付いたことはある?」
「現状では情報が不足しています。探索を進めなければ、有効な分析結果は得られないかと」
要約すると、彼女たちも不可解には思っているものの、その原因の特定には至っていないといったところだろう。
間違いないのは、〝銀霊の氷獄〟に異変が起こっている。
当初はてっきり、凶暴化した魔獣との連戦を強いられるかと思っていた。けれど、蓋を開けてみればむしろ逆の状況が待ち構えていた。気を抜けば油断してしまいそうなほど、何もない。
アヤメ達も武器を構えてこそいるけれど、やはりこの状況を不可解に思っているようだ。
「あれが二階に続く階段だ」
「何もないまま来ちゃったね」
結局、僕らは一度も魔獣に遭遇しないまま階段へと辿り着いてしまった。
凍りついた石材の迷宮は、僕らの足音以外には何も聞こえない。魔獣の痕跡として、匂いや毛、足跡なんかは残っている。それがまた異様だった。
それでも、意を決して階段を下る。
「うう、まだ寒くなるのか」
「魔獣もそのぶん強くなる。まあ、出てきたらの話だが」
一階層よりも更に気温は下がり、睫毛に氷の粒が張り付く。アヤメ達は平然としているけれど、ヤブローカやポードは苦しそうだ。彼も赤い木の実を噛みながら、必死に耐えている。
第二階層もまた、魔獣の気配がない。空虚な迷宮の通路だけが延々と続いている。
「一番奥に大部屋がある。とりあえず、そこまで行くか?」
「うん。お願い」
目的地を迷宮の最奥に設定し、慎重に歩みを進める。
「最奥の部屋には、コアはあるのですか?」
「コア? いや、それらしいもんは見たことないな」
「なるほど、そうですか」
道中、アヤメが尋ね、アトリーチが首を捻る。
ダンジョンコアは迷宮の心臓だ。それがないと言うことはありえない。まだ未発見であるというのも、考えにくい。となれば、やっぱり第三階層以降の存在が示唆される。
「この先だ」
アトリーチが通路の角を曲がり、前を指す。相変わらず魔獣の気配はしない。しかし、歩き出そうとした彼をユリが止めた。
「待ってください。――前方に誰かがいます」
「魔獣?」
「いえ……」
ユリが眉を寄せる。
その時だった。
「やはり来たか」
前方から、聞き覚えのある女性の声が響く。明らかな怒気を感じて、もはや言い逃れもできない。僕らは観念して、彼女の元へと姿を現した。
「ヴァリカーヤ」
大部屋で待ち構えていたのは、毛皮を纏ったギルド長。その傍には老練な探索者たちが付き従っている。彼らはアトリーチを鋭い眼光で睨みつけていた。
「お前達、自分が何をしているのか、分かっているんだろうな」
赤い瞳に炎を燃やし、こちらを睨みつける。一言ごとに区切りをつけた声が重く両肩にのし掛かる。
僕は頭を下げて謝罪するほかなかった。
「お前達は禁を犯した。異論はないな?」
「はい」
ヴァリカーヤは僕らがここへ来ると予感していたのだろう。その上であえて外出を許し、泳がせた。自分は老爺と呼ばれる探索者たちの中でも熟練の者を連れて、〝銀霊の氷獄〟に先回りして。彼女達の足跡は雪に紛れてしまう。僕らは気付かず、まんまと姿を現した。
「今すぐに出て行け。迷宮からではなく、町から」
「ちょ、ちょっと待てよ。もう山を越えるのは――」
「お前に口を開く権利はない」
厳しい指示にアトリーチが声を上げようとして、睨まれる。彼も探索者以外を迷宮へ案内したという罪を犯した。これから、老爺たちによって処遇が定められるのだ。
「待て、ヴァリカーヤ」
その時、ヤブローカが前に歩み出た。彼は真剣な眼差しで、臆することなくヴァリカーヤを見据える。その態度は少なからず彼女を驚かせたらしい。ヴァリカーヤは口角を上げて彼を見下ろす。
「どうした。今更、こいつらを庇おうという気か?」
「それもあるが、そうではない」
双方は一歩も引かず、緊張感が走る。僕は冷や汗を垂らしながら、今にも飛び出しそうなアヤメ達を必死に抑える。そうしている間に、ヤブローカは周囲を見渡しながら口を開いた。
「お前達、ここに来るのは初めてではないな」
ヴァリカーヤは冷たく笑う。
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