第128話「雪中の道」
アトリーチは覚悟を決めた顔つきだった。彼が今から何をしようとしているのか。――ヴァリカーヤの制限を無視して、僕らを〝銀霊の氷獄〟に案内しようとしている。
「本当にいいの?」
「ああ。――ヤック達が悪人じゃねぇことは分かった。それに、このままダンジョンを閉じていても、状況は悪化するだけだろう。だったらこうするしかない」
大ぶりな鉈を携え、彼は強く頷く。自分に言い聞かせているようでもあった。
この一月が無駄ではなかったという安堵と、彼を巻き込んでしまった罪悪感が胸を満たす。彼のためにも、今回の潜入は成功させなければ。
「爺さんも来るのか? 今なら、俺とコイツらだけの話にできるが」
アトリーチはヤブローカに問いかける。
僕らが迷宮に入るだけならば、ヤブローカはここで別れたらいい。彼まで禁忌を破る必要はない。仮にヴァリカーヤたちに露呈したとしても、罪に問われない。
けれど、老猟師は眼光鋭く首を振る。
「何を言う。儂は、儂のために迷宮へ行くんだ」
彼もまた強情だった。若かりし頃の記憶を思い返し、今日という日を待ち望んでいた。この千載一遇の好機を逃す理由などなかった。
ヤブローカの意志の硬さを確かめて、アトリーチも頷く。僕らはもう、後戻りはできない。
「こっちだ」
アトリーチは雪の中を歩き出す。シルクのような、動物の足跡さえない純白を踏み抜き、足跡を付けながら進む。僕らもその線をなぞるようにして歩き、森の中に痕跡を刻んでいく。
「これを見られて、追いかけられたりしないかな」
「この雪ならすぐに消えるさ」
少し不安が胸をよぎるが、アトリーチはそこを憂いてはいないようだ。雪はしんしんと降り積もり、あっという間に凹凸を消していく。あまりにも深く積もりすぎて、猟犬のポードは少し歩きにくそうにしているほどだ。
どこまで行っても深い森が続き、雪が音をほとんど消してしまう。時折あるのは、雪の重みに耐えきれず枝の折れる音くらいのものだ。雪をかき分けるように進むのは屈強な熊獣人でも苦しいようで、アトリーチたちの荒い息も聞こえてくる。
「ずいぶんと遠いんだね」
「そうだな。だいたい、一時間はかかると思っていい」
迷宮都市から迷宮までは、大体徒歩で三十分以下の距離にあるのがほとんどだ。そうでないと輸送の手間が嵩んでしまう。けれど〝銀霊の氷獄〟に限っては、その場所を秘匿するという意味もあってか、かなり遠く離れた所にあるようだった。
これにはヤブローカも予想外だったようで、通りで見つからないわけだと歯噛みしていた。
「普段はソリを使って移動するんだ。トナカイに牽かせてな」
「そういえば厩舎にいたね」
牛や山羊に混じって、立派なトナカイもいた。農作業に使うのかと思っていたけれど、探索者の足としても利用されていたらしい。トナカイのソリで一時間となると、僕らの足では更に時間がかかるのだろう。
「ヤック様、お疲れではないですか?」
「大丈夫だよ。アヤメ達こそ疲れてない?」
「我々はこの程度の寒冷地であれば十分に稼働保証の範疇ですので、問題ありません」
アトリーチ達も苦しげに呻くなか、アヤメ達は涼しい顔だ。ユリとヒマワリに至っては、槍と猟銃を抱えた上での移動だというのに。そもそも、僕やアトリーチたちは分厚く重たい毛皮の防寒具を羽織っているのに対し、彼女達は寒々しいメイド服だけ。手袋こそ着けているものの、見ているだけで震えそうになる。
「アヤメ達はいったい何者だ? いくら寒さに強いと言っても限度があるだろ」
「そ、そうだね」
あまりにも奇妙な三人に、さすがにアトリーチも違和感を抱く。機械人形と伝えて、納得してもらえるものだろうか。
「彼女達は特別だ。雪の精霊みたいなものだと思っていいだろう」
「雪の精霊ねぇ。御伽話は嫌いじゃないが」
ヤブローカが口を挟み、アトリーチもそちらに乗っかる。
「雪の精霊っていうのは?」
「オギトオルクの奴ならみんな知ってる御伽話さ。この森には雪の精霊が住んでて、冬になったら踊るんだ」
「へぇ……」
どこにでもありそうな伝承と言えば、そんな気もする。けれど、ヤブローカの話を聞いたあとでは、つい別の存在が脳裏にちらついてしまう。アヤメ達は目が覚めるような美人だし、雪の白さもよく似合う。こんな森の中で出会ったら、妖精や精霊かと思ってしまうのも納得だ。
「我々はそのような非現実的な存在ではありません」
「人類の叡智の結晶なんだから。適当なこと言わないで」
とはいえ、本人達はあまり嬉しくないみたいだ。魔法なんかにもあまり積極的に近付こうとはしないし、アヤメ達にも苦手なものはあるのだろう。
「それにしても、思ったよりもずっと静かだね。猟期中だから、もっと獣はいるのかと思ってたよ」
「この雪ではほとんど寝ておる。迷宮とは違うんだ」
狩猟解禁とあって、森の中にはたっぷり脂肪を蓄えた鹿なんかがいるものだと思っていた。けれどヤブローカはそんなわけがないと一蹴する。
狩猟と探索の大きな違いは、相手を探すか相手から隠れるかという点にある。
狩猟の場合は獲物を探して広い範囲を歩き回り、つぶさに観察して探し出す。そうして一矢に全身全霊を懸けて射掛けるのだ。
一方で迷宮では魔獣は凶暴だし、空間も狭く限られている。姿を見せれば襲いかかってくるような相手からこそこそと逃げ回るのが、基本的な動きになる。
迷宮探索で魔獣に遭遇しないことはほぼないけれど、狩猟においては何日も獣の後ろ姿どころか痕跡さえ見つけられないということはままある。
「同じように見えて、全然違うんだ……」
「当たり前だろ」
しみじみとして頷く僕を振り返り、アトリーチが呆れた顔をしていた。
「そら、もうすぐだぞ」
過酷な道行から気を紛らせるために話しながら歩いていると、やがて先頭のアトリーチが頭を上げる。そこからしばらく歩き、いよいよ僕らは〝銀霊の氷獄〟の入り口へと到着した。
「……ここが迷宮の入り口?」
「そうだ」
けれど、アトリーチが案内した所は何もない森の中だ。なだらかに隆起した雪が白く続いている。
まさか、騙された?
「騙したわけじゃない。ちょっと待ってろ」
僕の視線から疑念を感じたのか、アトリーチは雪の中に足を踏み出す。そのまま足先で何かを探り、そして見つけ出す。腕を突っ込み、腰を落として、それを持ち上げる。
「ふぎぎぎぎっ!」
「アヤメ」
「かしこまりました」
彼一人では苦しそうだ。僕はアヤメに声をかけて、彼の元へと向かう。
アトリーチが持ち上げようとしていたのは、何かの蓋だった。それに手をかけ、力を込める。
「ふっ!」
「うぁあああっ!?」
結局、ほとんどアヤメの腕力だけで、それが持ち上げられる。
雪の中から迫り上がってきたのは、丈夫そうな木の板だ。その下には、古びた石造の階段が続いている。
「これが、〝銀霊の氷獄〟か……」
「そういうことだ」
オギトオルクのギルドが、町民達にも秘匿していた小迷宮。僕らはついに、その入り口に立つことができた。
一般的に迷宮は人通りが多いこともあり、入り口くらいは軽く整備されている。そういった点では〝銀霊の氷獄〟も階段が整えられているけれど、こうして蓋をして隠されているあたりが独特だった。
「この中に、入っていいんだよね」
「ここまで来たら同じだよ。さあ、入れ」
〝銀霊の氷獄〟の入り口を見つけてしまった以上、いよいよ引き返すことはできない。もちろん、そんなつもりもない。僕はヤブローカと一瞬だけ視線を交わし、意を決して階段を降りていった。
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