第109話「山脈の向こうへ」

 コルトネ山の尾根を越え背面へと向かう道のりは過酷だ。一年を通して深い雪が溶けることなく積もり続ける峻険な斜面を、ゆっくりと登っていく。吐息も白く凍りつき、肌がひりつくような冷気が強い風と共に吹き付ける。油断すれば足を踏み外し、斜面を真っ逆さまに滑落してしまうだろう。細い糸のような道を辿るには、ココオルクの商隊が残した案内の杭だけが頼りだ。


「足が止まってるわよ。疲れたなら言いなさい」


 足がもつれ、いくら息を吸っても力が抜けていく。普段の迷宮探索とは勝手の異なる山行に苦しんでいると、不意に背中が軽くなった。振り返ると背負っていたリュックサックが浮き上がり、ゆるく波打った金髪がその向こうから見えた。


「ありがとう、ヒマワリ。でも大丈夫だから」

「そんなこと言って倒れたら承知しないわよ」


 トゲのある言葉とは裏腹に僕の荷物を支えてくれるのは、小柄で華奢な体をメイド服で包んだ少女。僕がココオルクで買った手袋をはめて、苦も無く雪道を踏破しているヒマワリだ。

 彼女の気遣いに感謝しつつ再び歩き出そうと前を向くと、今度は赤髪のメイドさんがこちらを振り返っているのが見えた。背の丈ほどの槍を携え、周囲を油断なく警戒しながら行軍の殿も務めてくれている。しなやかだがガッシリとした長い足が、彼女の力強さを密かに表す。


「ごめん、ユリ。ちょっとペースが落ちちゃって」

「構いません。マスターの歩調に合わせます」


 戻ってきて上から手を差し伸べてくれる。ユリのしなやかな指を掴んで、斜面を一気に引き上げてもらう。

 もうすぐコルトネ山の尾根を跨ぐ。頂上からはかなり降ったところだけど、それでもココオルクからずいぶんと登ってきた。


「いい天気だね……」

「空が広々としていて、気持ちがいいですね」


 短い髪を風になびかせながらユリが目を細める。空は快晴。突き抜けるような蒼穹には雲ひとつない。身に染みる寒さも、この絶景を見るための代価なのかもしれない。

 大陸の屋根とも称され、天を支える柱とも言われるコルトネ山。その尾根から裾野を見下ろしてみれば、悠々たる自然が一望できる。いつも地下に潜ってばかりの迷宮探索ではなかなか体験できない、開放感にあふれた光景だ。


「ふぅん。ま、なかなかね」


 ココオルクの迷宮〝黒鉄狼の回廊〟から出てきたばかりのヒマワリも、この光景を見るのは初めてだろう。長い髪を押さえながら眩しそうに広い世界を見渡している。

 雪の白から岩の転がる灰色へ、さらに緑が滲み、やがて地平の向こうには大きな海があるはずだ。コルトネの擁する雄大な自然は、全てが青空の下に連なっていることを実感させてくれる。


「ヤック様」


 しばし絶景を堪能していると、尾根の向こうから声がかかる。雪を踏み締めてやってきたのは、手にトランクを携えた黒髪のメイドさん――アヤメだ。丈の長いスカートに、白いフリルの付いたエプロン。他の二人と同様に、雪山でも変わらず綺麗な服装を維持している。

 そんな彼女は道の先を指差して、いつもの冷静な面持ちで言った。


「この先に小屋がありました。そちらで休憩をとりましょう」

「商隊の小屋だね。うん、ありがたく使わせてもらおうか」


 この道は山の中腹にある迷宮都市ココオルクの商隊が各地に鉄を売りにいくときに使うものだ。僕らもそこをありがたく使わせてもらっていて、更には道中にある小屋も自由に使っていいと言われていた。

 先行して道の様子を確認していたアヤメの案内を受けて、僕らは尾根を跨いで下り道に踏み込む。


「ヤック様、足元に気を付けてください」

「大丈夫だよ。僕だって探索者なんだから」

「その油断が命取りですよ、マスター」

「ユリまで……」


 背の高いメイド二人に両側に立たれ、ゆっくりと降りていく。いくら商隊が通る道といっても、地上のそれとは違って頻繁に雪が降るせいでほとんど線は辿れない。一往復分のアヤメの足跡だけが頼りだ。

 背が高くて足も長いアヤメやユリならともかく、それよりも身長の低い僕は余計に労力がかかる。


「何よ」


 少し心配になって振り返ると、ヒマワリが僕らの足跡を辿って追いかけてきていた。視線に気づいて眉を寄せる彼女に、僕は慌てて弁明する。


「いや、歩くの大変じゃないかと思って」

「第二世代を舐めないでよ。アンタみたいな軟弱とは違うんだから!」

「ヒマワリ――」

「ま、まあまあ」


 胸を張って答えるヒマワリにアヤメが雪よりも冷たい声を出す。僕は慌てて彼女を押し留めながら、あらためて三人の様子を窺う。

 ヒマワリの言葉に嘘や誇張はない。ココオルクを出発して数日。過酷な山道を進み、降雪地帯に入ってからも一日歩き通している。にも関わらず、三人とも疲労を微塵も感じさせない顔つきだ。肩で息をしている僕とはまるで違う。

 それも当然のこと。彼女たちは人間のように見えるけれど、人間ではない。


「我々の残存エネルギーにはまだ余裕があります。よければ、私がヤック様を運びましょうか?」

「だ、大丈夫だから! 自分で歩けるよ!」


 隙さえあれば僕をお姫様抱っこしようとするアヤメから逃れる。

 彼女も、ユリもヒマワリも、機械で出来た人型のロボットだ。その滑らかな皮膚の下には、硬くて頑丈な鉄のフレームがある。青い瞳は光を宿し、その手に人をはるかに超える力を持つ。彼女たちは、迷宮に眠っていた過去の遺物。そして、僕と契約を交わしたメイドさん。


「遠慮なさらなくても良いのですよ」

「そういうのじゃないから! ほら、早く行こうよ」


 僕は機械のメイドさんと旅をしている。

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