第90話「短い隙間」

 裏道は検査という名の試練こそないものの、狭くて暗くて入り組んでいた。基本的に人が歩くことを想定していないのか、どう考えても無茶な構造が続く。


「さあ、ヤック様。こちらへ」

「ひぃ!」


 離れたところでアヤメが両腕を広げている。彼女の白いエプロンのフリルが風を受けて揺れていた。下に目をやれば底も見えない闇が広がっている。転がり落ちた小石が何かに当たる音も聞こえない。

 細い通路の先に現れたのは、巨大な空洞。落ちればまず助からないであろう高さに突き出した細い道は、途中でぷつりと切れていた。アヤメとユリは持ち前の身体能力で軽く向こう側で飛び移っていたけれど、僕は足がすくんでしまった。


「距離は短いです。ヤック様でも十分に跳躍で届く範囲です」

「そ、そうかもしれないけど……」


 ぐっと拳を握り込んだユリが鼓舞してくれる。実際、向こう側へは1メトと少し。地面に同じ距離の目盛りを引けば、軽く飛び越せるだろう。

 とはいえ状況が違いすぎる。横からは時折風も吹き付けるし、そもそもこちらも向こうも幅1メトもない細い通路だ。もし足を滑らせたり怖気付いて力が足りなかったりすれば、奈落の底へと真っ逆様。そんな恐怖が胸を締め付ける。


「私がヤック様を掴みますので、ご安心ください」


 アヤメが両手を広げて待ってくれている。彼女のことは信じている。僕が多少下手を取ったところで、確かになんとかしてくれるだろう。でも……。

 下を見てしまう。見てしまえば恐怖が足にまとわりつく。


「さあ、ヤック様。私の胸に」

「マスター!」


 アヤメが胸を開く。ユリが叫ぶ。


「マスター、背後から敵がっ!」

「えっ? うわぁっ!?」


 ユリの声が切迫していた。振り返ると、通路の奥から黒い影がズルズルと迫って来ていた。さっき穴越しに見ていた黒色スライムのようだった。速度は遅い。体を引きずるような動きでゆっくりとこちらへ迫っている。遅いが、確実に僕を狙っている。


「ふっ、ふっ」


 早く飛び移らないと。スライムがこちらに来るまであとどれくらい余裕がある。分からない。助走をつける必要もある。今すぐ動かないと。


「マスター!」

「ヤック様!」


 二人が呼んでいる。僕がここに立っている限り、二人もこちらに戻ってくることはできない。そして、それより僕が飛び移る方が早い。


「はぁ、はぁ……!」


 ずる、ずる。引きずる音がする。ゆっくりと近づいてくる。

 時間はない。今しかない。

 三歩後ろに下がる。踏み込み、踏み出し、踏み切る。一メトを越えるために必要なだけの速度、勢いを作らなければならない。前を見るとアヤメが両腕を広げていた。迷っている暇はない。


「――はぁああああっ!」


 たん、たん、たんっ。

 途切れた通路の縁に足を掛けるようにして、前に飛び出す。時を同じくして、背後からスライムが飛び上がった音がした。ゆっくりとにじり寄っていたスライムが、体を伸縮させて自分を弾くようにして飛んだのだ。

 一瞬でも決心が遅れていたら、背中を突かれて奈落に落とされていた。けれど、それが届く前に僕は前に出た。


「アヤメ!」

「ヤック様!」


 無我夢中で足を振る。視界がぐちゃぐちゃになり、白に埋め尽くされた。

 顔面を柔らかな感触が包み込む。少し硬くて冷たい感触が、僕を受け止めてくれた。真横で槍が突き出される風音がした。僕を追いかけていたスライムが、ユリによって虚空へ叩き出される。


「ご立派でしたよ、ヤック様」

「あ、ありがとう……」


 僕をぎゅっと抱きしめたまま、アヤメが優しく称えてくれる。済んでしまえば、ただ一メトを飛び越えただけだ。力が余ってユリに激突するくらいには容易い距離だ。


「あの、アヤメ? もう大丈夫だから……」

「まだ油断はできません。しばらくは警戒が必要です」

「むぎゅっ」


 僕が離れようとするとアヤメは逆に腕に力を込める。彼女の柔らかな胸に押し付けられて、変な悲鳴が口から漏れ出た。


「アヤメ、マスターが痛がっています」

「私の胸部緩衝装甲は十分な厚みがあります。心配はいりません」

「……」


 何やら頭上で二人の会話が繰り返される。柔らかさはともかく、窒息しそうなんだけど。


「私も自己進化機能を使えば――」

「と、とりあえず先に進もうよ」


 何やら勢いのつき始めたユリを制しながら、アヤメの腕から抜け出す。なぜかユリは不服そうな顔をしていたけれど、またいつ黒色スライムがやってくるとも分からない。時間もないということで、僕らは先へ急ぐ。

 そもそも、一日で探索できる距離として第三階層到達はかなりギリギリだ。本来なら第二階層も数日かけて探索し、この迷宮自体に慣れていきたいところだった。ココオルク自体が標高の高いところにあるということもあって、体を馴染ませるのも難しいのだ。

 これだけの強行軍ができているのは、ひとえにアヤメとユリが屈強で、僕も戦闘をほとんどしなくて良いからだった。


「マスター、お疲れではありませんか? 私が背負って差し上げることもできますが」

「いや、大丈夫だよ。歩くだけならまだまだ余裕だから」


 ユリもこまめに気遣ってくれるけれど、僕もあまり二人に負担をかけたくない。今でも依存しすぎなくらいなのだから。

 リュックサックを背負い直し、懐に忍ばせていた携行食を数口ぶん齧る。消耗した体力をその場で少しずつ回復させていく。できるだけ休憩時間を取らずに進み続けるためのやり方だ。


「アヤメとユリは疲れてない?」

「周囲のマギウリウス粒子の濃度は奥へ進むほどに上昇傾向にあります。機体の損傷などもありません」

「探索すればするほど元気になるのは羨ましいね」


 機装兵である二人はダンジョンの外より中にいる方が力が湧くし傷も治りやすい。一切疲労のない二人の横顔を見ていると、とても頼もしい。


「マスター、この先が第三階層へと通じているようです」

「おお、本当だ! さすがユリだね」

「ありがとうございます」


 入り組んだ道を着実に進み、いよいよ僕らは第三階層へと至る。

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