第44話「聖女への伝言」
目を覚ますと、白い見知らぬ天井が飛び込んでくる。薄い毛布越しに硬い床を感じて、自分がアレクトリアの大神殿にいることを思い出す。
起きあがろうとした僕は、白い天井だと思っていたものが違うことに気がついた。よくよく見てみれば随分と近い距離にあるし、何やら後頭部に柔らかい感触がある。
「アヤメ?」
「おはようございます、ヤック様」
まさかと思って名前を呼ぶと、天井だと思っていたもの――白いエプロンが揺れてその向こうからアヤメの顔が現れた。
「もしかして一晩中こうしてくれてたの?」
「枕もありませんでしたから。マスターの快眠を支援することもハウスキーパーの重要な使命です」
どうやら、アヤメは一晩中膝枕をしてくれていたらしい。申し訳ないやら、少し空恐ろしいやら。彼女が人間でないことは分かっているつもりだけど、やっぱり一晩ずっとモノのように扱ってしまうのは心が痛む。
「というか、枕なら荷物の中になかったっけ?」
「………………失念しておりました」
リュックの中には野宿する時のための枕を入れていたはずだ。なんだかんだ迷宮内で一夜を明かすこともある探索者にとって、寝具は必需品なのだから。
しかしアヤメはその存在を忘れていたと嘯く。彼女ほどの優秀な存在が枕の存在を忘れるだろうかと疑問に思うも、本人がそういうのなら追及もできない。
「ごめんね、アヤメ。足とか痛めてない?」
「全く問題ありません。マギウリウス粒子も完全に充填できております」
一晩まったく微動だにせず僕の頭を支え続けていたアヤメの太ももは、一切損傷していないという。普通は血が溜まったりしそうなものだけど、やっぱりアヤメはすごい。それどころか、ここは“銀龍の聖祠”という迷宮の中で、この部屋も空気中の魔力濃度が非常に高い。アヤメはそれを体内に取り込んで、体力を回復させていた。
「いつでも活動可能です。まずは、朝食を準備いたしましょうか」
心なしかいつもより張り切った様子のアヤメは、そう言ってトランクから折りたたみ式の調理器具を取り出す。野外調理もハウスキーパーの仕事だと言って、まるで魔導具みたいなコンロや鍋をいくつも揃えているのだ。
けれど、僕は軽く体を動かして筋肉をほぐしながらアヤメを止める。
「流石にここで火は起こせないでしょ。それに、せっかくアレクトリアまで来たんだし、何か買って食べよう」
「……かしこまりました」
アヤメは何故かしゅんとする。けれど、窓もない地下の小部屋で火を起こすのは危険だ。だからといって携行食料をモソモソと齧るのも味気ない。
僕はリュックを背負い、アヤメと共に部屋の外に出る。長い階段を登って大神殿の入り口に向かうと、朝日が柱廊に差し込んでいた。
「うわぁ。綺麗だね」
地平から顔を出したばかりの太陽が、アレクトリアの街並みに光を注ぎ込んでいる。広い大通りがキラキラと輝き、複雑に入り組んだ建物もまるでモザイク画のようだ。さすが神聖都市と呼ばれるだけのことはある。
「おや、おはようございます」
「あっ、昨日の。おはようございます」
しばらく大階段の上からの眺望を堪能していると、背後から声を掛けられる。振り返ると、昨日案内してくれた神官のお爺さんが箒を携えて立っていた。
「しっかり眠れましたかな。何もない部屋で申し訳なかった」
「いえ。静かでゆっくりと休めました。毛布もありがとうございます」
「それならば良かった。何日宿泊されても構いませぬが、宿を取るならお早めに」
大階段の土埃を払いながら、お爺さんは親切に言ってくれる。寝床の快適さを考えるなら、やっぱり街中で宿を取った方がいい。けれど、大神殿の部屋も予想より遥かに過ごしやすかった。それにアヤメも過ごしやすそうだったのは嬉しい誤算だ。
「もし許していただけるなら、しばらく泊めてもらいたいです」
「そうですか。どうぞ、ご自由に」
連泊の旨を伝えると、お爺さんは朗らかに笑って頷く。白い豊富な髭が揺れ、優しそうな瞳が細められた。
「ひとつ、お尋ねしたいことがございます」
「はて。なんでしょう?」
会話が途切れたタイミングでアヤメが口を開く。彼女はお爺さんの方を見て、珍しく疑問を口にした。
「大神殿の聖女と面会することは可能でしょうか?」
その言葉に、僕もお爺さんも驚く。
大神殿の聖女様は古くからこのアレクトリアに住まわれ、この町の安全を守り続けてきた存在だ。とても見目麗しいお方だという話だけれど、僕も見たことはない。迷宮の外のことにはほとんど興味を示さなかったアヤメが、まさか聖女様に好奇心を抱くとは。
「ふぅむ……」
お爺さんは口髭を撫でながら考え込む。
聖女様はアレクトリアの住人たちでさえそう簡単には御尊顔を拝むことの叶わない存在だ。以前まではそうでもなかったらしいけれど。
「聖女様は、一日の大半を神殿の奥の宮にて過ごされる。ただ、時折、供を連れて市井へ降りられることもあります。運が良ければ、その際に」
そう答えるお爺さんだが、表情は浮かない。そう頻繁に大神殿から現れるわけではないらしい。
「――では、聖女様に伝言を頼めるでしょうか」
「伝言?」
アヤメがさらに突拍子もないことを言い、お爺さんが怪訝な顔をする。
「ちょ、アヤメ!」
「無理にとは言いません」
慌ててアヤメを制するも、彼女は真顔のまま続ける。
お爺さんはしばらく考えたのち、小さくため息をついた。
「確実に届けられるか、確約は致しかねます。私はしがない神官であり、聖女様に直接お声を届けることもできませぬ。ただ、側仕えの者に伝えることは可能でしょう」
「ありがとうございます」
どこまでも親切なお爺さんに頭が下がる。
アヤメも丁重に感謝の言葉を述べて、すぐに伝言の内容を伝えた。
「かつての茶会の一席より。主の家政を担う者。久方の挨拶を賜りたく」
僕でさえ意味の推し量れない言葉。まるで何かの暗号だ。
「――失礼ですが、あなたはいったい?」
お爺さんの疑問も当然だろう。
けれどアヤメは澄ました顔のまま、さらりと流す。
「ただのハウスキーパーです。ぜひ、よろしくお願いいたします」
そう言って彼女は、恭しく一礼するのだった。
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