第32話「劣勢の中で」
ダンジョン“老鬼の牙城”、第六階層。前人未到の最下層にして、迷宮の心臓たるダンジョンコアが鎮座する最奥。そこは今、暗澹とした死の空気に満ちていた。
人工的に構築された閉鎖環境はそこに封じた魔獣の進化を促進させる。下層へ向かうほど、大気中の魔力濃度は増し、魔獣に強い負荷を掛ける。特にダンジョンコアを擁する最奥の部屋――俗に“魔王の間”と称される空間は、立ち入るだけで息苦しさを感じるほど濃密な魔力を含んでいた。
ダンジョンコアの至近にて最も潤沢な魔力を享受し続ける魔獣の強者は、それ故に他を遥かに凌駕する力を有する。ダンジョンボスという通称で知られる閉鎖生態系の最上位捕食者、それこそがこの世界の頂点に立つ存在だ。
「がぁっはっ!?」
無邪気に蹴られたボールのように、メテルが床を滑る。口から血を吐き出し、顔に苦悶の表情を浮かべる。立ち上がろうと床を突いた腕が、横から薙ぎ払われた脚によって折られる。
「ぎゃああっ!」
狐獣人の絶叫が“魔王の間”に響き渡る。メテルを弄ぶように蹴り飛ばすのは、異形の怪物だ。厚く硬い真紅の肌は筋肉と血管が浮き上がり、3メートルを越すかという体躯にも関わらず太すぎる四肢によってずんぐりとした印象を抱かせる。
それでいて、機敏なメテルさえも圧倒する身軽さで、破城槌のような破壊力を発揮するのだ。
「ウオオオオオッ!」
「ホルガ!」
満身創痍で転がるメテルの前に飛び出したのは、大盾を構えたホルガだった。“大牙”の盾である彼は、風前の灯と化した仲間を守るため己を鼓舞する。後方からルーシーの悲鳴が上がるが、耳を貸さない。
「ルーシー、メテルを治療しろ!」
「わ、分かってるわよ!」
ルーシーは治癒魔法を扱う治癒術師だ。普段の不味い薬とは違い、魔法は圧倒的に早く傷を癒す。それでも、肋骨と腕を折られ、内臓にも傷を受けたメテルの命をつなぐには時間がかかるだろう。
ならば、ホルガは盾としてその時間を作らねばならない。
「こい、老鬼!」
ホルガの勇ましい煽りを受けて、“老鬼の牙城”のダンジョンボス――老練なるハイオーガが牙を剥く。ダンジョンコアから漏れ出す濃密な魔力を啜り、もはや歯向かうものすら居なくなった圧倒的な強者が、久方ぶりに現れた挑戦者に歓喜し打ち震える。その醜悪な笑声が恐怖を呼び起こすが、ホルガは守護者の矜持を胸に抱いて耐える。
「はあああっ!」
老鬼の眼が金に輝く。ホルガを捉え、離さない。
猛然と走り出すドワーフに向かって、それは太い幹のような手を差し向けた。
「むぅんっ!」
峻険な山岳や堅牢な洞窟を故郷とするドワーフ族は、小柄ながら屈強である。岩から掘り出されて生まれるという逸話が広がるほど頑丈な骨に強靭な筋肉を纏う。また、彼らの冶金技術は長い歴史と熱意に裏打ちされたものがあり、龍の息吹や巨人の拳に耐えるほどの頑強な鎧を打つ。ホルガの持つ重厚な金属鎧や、体を覆い隠すほどの大盾もまた、そんなドワーフ族の鍛治師によって打たれた特別なものである。
「なんの、これしきっ!」
ホルガの掲げた盾が、老鬼の殴打を正面から受け止める。なんら小細工のない純粋な衝突により、ホルガの足元にまで衝撃が広がる。しかし、彼の屈強な肉体はそれに耐え切った。
「せいやああっ!」
老鬼の拳を突き飛ばしたホルガはそのまま斧を振り、その赤黒い肉に突き立てる。
「硬いッ!?」
だが、鋭利に研がれた斧の刃は通らない。老鬼の厚く硬い皮膚は天然の鎧となり、生半可な攻撃を通さない。
当然、彼の斧もまたドワーフの作品だ。それをドワーフであるホルガが震えば、一打ちで大樹を伐するほどの威力を見せる。
だからこそホルガは驚き、そこに一分の隙が生まれた。
『ガアアッ!』
「ぐあっ!?」
ねじ込まれた腕がホルガの丸い体を撃つ。砲弾のように弾き飛ばされた彼は、勢いよく背中を迷宮の壁に打ち付け、肺から全ての空気を吐き出した。まずい、と本能が警鐘を鳴らす。しかし、体が動かない。視界を明滅させる彼の前に鬼が肉薄した。
「ホルガ!」
ルーシーが再び叫ぶ。メテルの治癒はまだ終わっていない。
急激に足元が冷たくなっていくのを感じながら、ホルガは最後の力を込めて声を振り絞る。
「逃げろ、ルーシー!」
フェイドは老鬼を一目見ただけで怖気付き、仲間たちを残したまま遁走した。
それでも残された三人は諦めず、立ち向かうと決めた。
メテルが不意を突かれ倒れた。だが、ルーシーの回復がギリギリ間に合う負傷だ。彼女たちが退避し外に脱すれば、それだけでも。
死ぬのは歳の順でよい。フェイドは覚悟を決める。仲間を守って斃れるのであれば、守護者の冥利に尽きる。だが――。
「エネルギー充填完了。警護任務を開始します」
僅かな後悔と共に瞼を閉じたホルガだったが、思っていた衝撃はやってこない。
ゆっくりと瞼を上げる。
そこに映ったのは、風を受けて広がるロングスカート。スキンが剥離し金属フレームが露出した足が、力強く地面を蹴る。
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