第27話あの日の君が……
……やってしまった。
あれから一人、あの場から逃げ出すと街道を走り、自宅に戻って部屋に閉じこもった。
逃げてしまった。
僕の人生で他人に、ここまでの憤りを感じたことがあっただろうか。
自分が他の人より不自由で融通が利かなくて、その不幸を呪うような出来事があっても憤りはせず、只々諦めているばかりだった。
そもそもエリシアが普通の状態ではなかったことは目に見て取れたし、あそこはしっかりと話を聞くべきだった。
何故、あんなにも怒りが湧き上がった。
……まるで子供のように。
それはもう遠い前世の話、僕の忘れてはいけない数少ない大切な思い出がある。
──追憶、13歳、夏──
あれは今日みたいに暑さ増す初夏の日のこと。
中学生になって一年と少し経った頃、僕は病院附属の図書館へと足を運んでいた。
入院することになってしまった時の恒例だ。
空調の効いた図書館の端で、昨日とは一つ横にずれた参考書を手に取り席につく。
「ねぇ、一緒に遊びましょう」
いつもの机のいつもの席で、昨日とは違う参考書を本棚から持ち出し読みふける。
この時間、この時だけは時間を浪費する焦りから解放されていた。
「ねぇったら〜……無視?」
論理に適った淡白な情報が載る参考書を端から眺める事は嫌なことを忘れるのに最適な単純作業、ただただその情報の海に溺れていく。
「だったらこれならどう?──フラーッシュ!」
本の背から差しこんだ長方形の影から、明滅する光と影が目を眩ませる。
「……誰」
「あ、やっと気づいた」
顔を上げると、目の前でライトの点いたスマホ片手にこちらを見つめる女の子がいた。
先ほどの急な光の明滅は、彼女がスマホのライトボタンを連打した結果らしい。
「私は日登 鈴華。遊びーましょ!」
おかしなことを言う。
「どうして?」
「どうしてって、遊びたいから。そっちこそ、どうして?」
知らない人がいきなり他人の読書の邪魔をして、遊ぼうと話しかけてくるからだからだよ。
「ね、直人くん?」
「どうして僕の名前を!?」
「そんなに驚かなくても、別に難しい事じゃないよ。ほらこれ」
彼女が指差した先、そこには ”一条 直人”の名が記された貸し出し用の図書館カードがあった。
「いつも難しそうな本ばっかり読んでるから頭いいのかなって話しかけるのに少し緊張したけど、どうやら杞憂だったみたいね」
虚をつかれた僕を見て、からかうように相好崩す彼女の
「いつも?」
「あっ、いや、なんでもない!今のは忘れて!!」
取り繕うようにそんな風に赤面されたら、忘れられない。
なんだか、楽しい子だ。
「毎日図書館だけじゃ退屈しない? 偶には体を動かさないと」
華奢な腕から差し伸べられる綺麗な手。
「うん……そうだね」
僕にはとても力強く、そしてとても羨ましく思えた。
あの日、彼女と出会ったあの日から、僕の日常は少しずつ色づいていった。
最近では、自分で読みたい本を探すようになり、前みたいに端から順に参考書を取ることもなくなった。
「それで姫野さんがね、内緒で私でも食べられるケーキを作ってきてくれて」
鈴華と出会って1週間、天気の日はこうして病院に併設する森林を通る遊歩道を歩きながら他愛のない話を、雨の日は図書館で互いにオススメの本を交換して読み合あった。
「ちょっと聞いてる〜?」
「聞いてる聞いてる」
「ならいいけど」
いつもと変わらない笑顔で咲(わら)ってみせる鈴華を見るのは、ここ最近の僕の日課だ。
「それとね、実はこれが本題なんだけどさ。この前話してた件、OK出たよ」
「本当?」
「ほんとホント! だから私もこれを持ってきたの。だから今から行かない?」
サプライズでも仕掛ける子供のように無邪気な笑顔を見せる鈴華は、気になって先ほどからチラチラと僕が見えていたケースを掲げた。
「暗いね」
「他のフロアはまだ使ってるところがあるから電気は通ってるらしいよ?」
僕たちは暗い廊下を歩き、目的地に向かう。
病院の敷地端っこにある旧本棟、教室ほどの広さの多目的室。
病院から借りた鍵で扉を開け、僕たちは中へ入る。
「ほら!あるでしょ?」
扉を開けた途端姿を現したそれを見て、どうだ!と胸を張る。
「ホントにあった。ピアノ 」
多目的室には、どうやってこの部屋に入れたのか疑問が浮かぶほど大きなグランドピアノが、静けさと埃をかぶっていた。
「埃っぽいから窓開けようよ」
それから僕たちは軽く部屋の中を掃除した。
陽の光を入れるためにドレープカーテンを開け、空気の入れ替えのために窓も開ける。
吹き込む風に揺られ陽に照らされるレースのカーテンが、晴れた夏の涼しさを視せる。
「うわー、大丈夫かな。よい……しょ……」
グランドピアノを覆う保護布の埃が巻き上がらないように、裏側を外に小さく畳み、布を窓の外へ放り投げるように広げて埃を飛ばした。
鈍さを艶めかせるピアノの前屋根を折り重ねた後、大屋根ごと持ち上げて突上棒で固定する。
鍵盤蓋を上げ、露わになる白と黒の縞々。
ポーン……安定したC4の音が、澄み渡る。
一通り、埋まったりしている鍵盤もない。
調律の必要はなさそうだ。
椅子に座り、ペダルのチェックも済ませると、早速、指の体操を兼ねて鍵盤を叩いていく。
曲はバッハ作曲、インベンションの第一番。
語り合いのような追いかけっこをするこの曲は、ピアノの教育用として知られるバッハインベンションの第一番を飾り、指の体操にはもってこいだ。
「面白い曲だね、追いかけっこしてるみたいで」
一分ほどの短い曲が終わり、鈴華が感想を言ってくれる。
僕も初めて弾いた時に、そう思ったものだ。
家族以外に演奏を聴かせたのが初めてだったため、変に緊張してしまう。
でも、褒められて嬉しかった。
だから、自然に指が動く。
静かな始まりからクレッシェンドし徐々に重厚さを増す音を響かせる。
久しぶりに響くこの音色に興奮を覚える。
ラフマニノフ ピアノ協奏曲第2番 第一楽章。
鍵盤を叩く指の動きは一気に加速し、流れるように音を響かせる第一主題。そして頭の中で流れるバイオリンによる主旋律に、チェロやコントラバスのピッツィカート。
第二主題では主旋律をのぞかせながら、頭の中で流れるオーケストラの音色と共に曲を仕上げていく。
最後には、完全に入った自分の世界との別れを惜しみつつ、力強く曲を弾き終える。
「すっごい! 私聴き入っちゃった!」
再び演奏を褒めてもらえた。
妄想のオーケストラとの共演は楽しい。
連弾用でもなければソロ用でもなく、協奏とほとんど変わらない譜面のこの曲を、協奏で聴いたことがない人は少し首を傾げるだろうが、僕はそれでも十分に美しい曲だと思う。
「僕がね、ピアノを始めようって思ったきっかけがこの曲だったんだ」
この曲を弾いていると、今でもあの日のコンサートの情景が浮かんでくる。
「小学校に入学したばかりで中々学校に登校できなかったある日、母さんと父さんが気分転換に初めてコンサートに連れて行ってくれてくれた。その日、それまで演奏された曲の数々はとても素晴らしくて衝撃を受けて、今でもその感動を覚えてる」
誰とも上手くいかず、あまり両親と会話をしなくなった頃、ある日ふらっと
楽器って、あんなに大きなホールを充たす音を奏でられるのか。
ピアノが主役のオーケストラがあるんだ。
いろんな初めてのことを、あの日に知った。
……そういえば、最近もまた、両親とあまり話をしていないような気がする。
「そして、その時に聞いたこのコンチェルトが今でも忘れられなくて……」
ステージの上で一際目立つグランドピアノに座り、緊張感のある出だしから重厚なオーケストラにも負けない伴奏を奏でたかと思えば主旋律を軽やかに弾き語る。
大きな波に強く足を引っ張られそうになりながらも立ち続ける強さのような力を感じた。
そのことを、子供ながらに両親に精一杯伝えようとして、たくさん話をした時の懐かしさを、鈴華が隣にいてくれたから、思い出せた。
「他にもベートーベンやショパン、モーツァルトなんか有名な人ばっかりかもしれないけど家にいる時は良くピアノを弾くようになって、それはそれで長く愛されている理由を感じることができたし、かなり体力使うんだけどそれでもやめられなかった」
やはりその時その時に感じた僕の感動は僕だけのものである。
共有する仲間がいても、それを生み出す彼らがいても、僕と同じ感動を得た人がいても、やはりその感動はまず僕の中にあるものだと自覚したいと強く思わされるほどにあの時の感動は一入だった。
だが、懐かしむと、鈴華に語らずにはいられなかった。
「息を吹き返したんだ……」
柄にもなく自分語りをしてしまった。
自分の好きなものを語れることが、こんなにも楽しいことだったのだと、失いかけていた感情と失なわれた時をやり直しできないことを同時に感じて、体の芯が熱くなった。
初めて話をしたあの日から彼女と話しているうちに明らかになった二人共通の趣味、それが読書と音楽だった。
「私はね、年の少し離れたお姉ちゃんがバイオリン奏者で初めてコンサートに招待してもらった時、コンサートマスターとして演奏するお姉ちゃんを見て私もーッ!ってなって……あーッ!直人が語るから私まで変に語っちゃった!」
窓の外を眺めて、恥ずかしさを誤魔化すようにパタパタと手で顔を仰いでいる。
背景は違くとも、どうやら鈴華も僕がピアノを始めたのと同じ気持ちでバイオリンを始めたようで、惹きつけられる。
「何か一緒に弾いてみよう!」
仕切り直すために、手を合わせた乾いた音が鳴らされる。
「何かリクエストとかある?」
「あー……メヌエット、とか?」
「えッ?」
バッハ作曲のメヌエット。
誰でも一度は聞いたり学校の授業で弾いたかもしれない互いに初心者用の曲。
二人のバイオリンとピアノで合わせて調律の取れる曲を考えたら、パッとそれしか思いつかなかったのだ。
「わかったッ、いいよ、弾こう!」
鈴華がメロディー、僕は左手の伴奏強めにスローテンポで曲を奏でる。
蝉も鳴き始める初夏の候、暑い日差しを時折さらう涼しげな風を感じながら、誰かと一緒にささやかな幸せを共有する。
そんな初めての経験を胸に、新たに生み出される音はとても心地よく、それからこの時間は僕たち二人だけの秘密の演奏会を開く事となった。
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