第26話Un tonnerre de roseaux


 エリシアの態度の変わり様に加え、一つ、気づいたことがある。

 普段は宝石のような透き通った赤い虹彩をしているのだが、今、目からはいつもの純粋さが失われ、ただただ血のように鈍く燃える真っ赤な瞳が胡乱としていた。


闇の鎌ダークサイス


 ゴブリンメイジを守るように立ち尽くすオークを捉えて離さない。

 華奢な手に黒い魔力を集め、やがて自身の身長よりも大きい鎌を握りしめる。


「鮮やかな血を……──見せてッ!」


 オークへと突っ込んでいく。

 あんな魔法、エリシアと魔法練習している時には見たことがない。


「──ッ待ってエリシア! 接近戦は危ない!」


 オークに向かっていく彼女を止めるため、必死に呼び止めた。


「あはッ!」


 エリシアは鎌の切っ先をオークに向け振り上げると、左肩から右腰に向けて袈裟斬りする。


「ブフォぉオオオ!」

「ほらッ! 血が垂れる、もう一回ッ!」


 大人よりも一回りは体格のあるオークを、11歳の女の子が狂乱の形相で慄かせた。

 それを見たエリシアは満足そうに微笑むと再び鎌を持ち直し、今度は反対側から袈裟に刃を懸けようとする。


「 離してよッ、これじゃ血が抜けない!!」


 追撃を入れようとしたエリシアは、横から迫る彼女の全身をすっぽり包み込めるほどの大きなオークの手の内に捕まってしまった。

 手に持っていた鎌は地面に落ちるや否や霧散して消えた。

 切っ先が尖っただけの鎌で突き刺し切り裂いても傷は浅く、オークの分厚い皮膚の前ではなんら大きなダメージにならなかった。


「エリシアッ!」

「ブォ」

「グゲゲ」


 捕まったエリシアを助けるため、彼女を避けて魔法を射出を試みるも、咄嗟の判断も虚しく、ゴブリンメイジに操られるオークはエリシアを握った手を前に出し彼女を盾にとる。


「ゲッ! ゲゲゲゲゲッ!」


 オークの後ろから、まるで「その魔法を今すぐ下げろ!」とでも言うかのようにゴブリンメイジが声を上げる。


「リアム、魔法を下げろ」


 ウォルターも、魔法を消すように命じる。


「わかった」


 敵の思惑通り、言うことを聞くしかない。

 氷と土の槍が、地面に積まれる。


「ブォッ!フォフォッ!」


 魔法の矛先が外されたことを確認したオークは、僕たちに前に出てこいとでも言うかのように、エリシアを掴む反対側の手で挑発する。


「リアム。あいつは皮膚が分厚いせいで初級程度の魔法じゃビクともしない。かといって中級以上の魔法を使えばエリシアちゃんを巻き込む」


 オークの魔法防御自体はそこまで高くない。

 だが、皮膚による防御が固いせいで初級魔法程度じゃ動じないらしい。

 そもそもオークは通常、中級者以上にレベルが指定されているエリアCから出現するモンスターである。


「俺が前に出て気を引くから、お前は同時に後ろにいるラナたちと逃げろ」


 緊迫する空気の中、万策尽きたウォルターがせめて僕を逃がそうと、捨て身の覚悟を決めた。

 だが、諦められない。

 全員を掬い上げたい。


 1.オークを怯ませることができる

 2.エリシアをオークの手の内から掠め取る

 3.エリシアを誰も犠牲にせずに救出


  ……の三つの条件を満たし現状打破できる方法を考えている。


『ダメだ。二は賭け、そして三に抵触するかもだけどこれしか思いつかない』


 恨めしい。

 憎らしい。

 シンプルかつ危険な一手だ。

 短慮だ浅慮だ……しかし経験の足りない今の僕にはこれしか思いつかなかったッ!


「ウォルター。今から僕が魔法を使うから、当たったら直ぐにエリシアを回収して」


 ウォルターがオークたちに突っ込んでいってしまう前に、苦肉の策を提案する。


「賭けだけど、乗ってくれる?」


 もし僕が少しでも失敗すればエリシアを僕の手で殺してしまう可能性もあるし、ウォルターを無闇に突撃させてしまうかもしれない。


「ありがとう」


 賭けと前置きした作戦に、ウォルターは首肯して応えてくれた。

 碌に内容も伝えられてもいないのに、彼は僕を信じてくれた。


 ……失敗、できない。

 ホルダーから短杖を取り出す。


「エリシア、ゴメン!」


 先に、ごめんね。

 傷つけてしまう。

 杖に手をかけて構えるまで数秒、僕は後悔を繰り返し、反復して、再三も、数回も、何回も、何度も、何度も、先取りしていた。


『どうかその分厚い皮膚の絶縁性が高くありませんように!』


 心の中でお祈りしながら魔法を放つ。

 

「ショックボルト!」


 杖に怯んだオークへ向かって、杖先から白雷を唸り飛ばす。


「ヴォ  オ ……」


 白雷が、直撃する。

 バチバチとエリシアを捕えるオークの皮膚を散った。

 硬直する体を伴い、小さな呻き声を上げて麻痺に雄々しさを削がれる。


「イチッ……よっしゃ! エリシアちゃん回収!気絶してるっぽいが無事だ!」


 エリシアの体にも電気が残っていたらしく、彼女を受け止めたウォルターが呻きをあげたが、オークがたじろぐと同時に握力がなくなった手から解放されたエリシアを、地面に衝突する前に見事に回収した。

 ゴブリンメイジもオークの真後ろに控えてはいたが、回収しに来たウォルターへの反応が遅れた程の早業だ。


『ありがとう、アラン先生……!』


 雷属性担当であるアランは、魔力コントロールがうまくいかない僕の魔法練習に根気よく寄り添い、威力特化の雷のみならず、彼のもう一つの担当属性である同様の火属性練習にも遅くまで付き合ってくれた。


「リアム以外は直ぐに下がれ!一発ドカンとやってやれ!」


 安堵も束の間、気絶したエリシアを抱えてダッシュで退避してくるウォルターからの魔法ぶっぱ要請である。

 その表情には、「まだやれるんだろ?」とでも見透かす、挑発の含みがあった。

 

 今度の雷に手心などいらない。

 常識内で、焦がし飛ばす。


「サンダーボールッ!」


 杖先に圧縮した雷の球を形成、帯電させた雷球を撃ち放つ。

 興奮冷めやらぬ焦げつくさんばかりの撃ち抜く指向よりは、帯電させた雷球を作り放つ方がよっぽど精神穏やかだった。

 

「ブォ……」

「ゲギャッ、ギャ……」


 雷球は、確実に巨人を穿つ。

 未だ痺れままならないオークは激しい断末魔をあげることもなく、静かに崩れ去る。

 傍にいたゴブリンメイジにも魔法防御を貫通する電がオークより側撃し、絶命へと誘った。


「んッ?」


 こちらにも足元から弱い静電気が走ったような、そんな気にするほどではない刺激が伝わってきた。

 放電された電気が地面を伝い、ここまで届いたようである。


「大丈夫!?ウォルター!!?」


 ウォルターの指示で少し下がったところに待機していた他の皆はいざ知らず、僕のすぐ後ろで待機していたエリシアを抱えたウォルターの受傷が心配である。


「だい……じょう、ぶだ……リアム」


 ウォルターは、髪の毛を逆立てながら不自由そうに開く口でなんとか状況を伝えてくれた。

 

 ……また、失敗した。


 意図した範囲以外にも魔法の影響を与えてしまったことに無念が残る。

 今度はヒットした敵の中だけで帯電と放電をするように魔法を調整しなければならない。

 やり直せない同じ轍は、踏みたくない。


「エリシアちゃんは様子がおかしかったし、気絶してもらったままセーフポイントまで戻ろう」


 痺れも取れてきたのか、口調も流暢になってきた。

 ……もう、三度目の正直だ。


「だったら僕が運ぶ。レビテーション、位置固定」


 エリシアを闇魔法で浮かび上がらせると、空間魔法で背中と背中が向き合うようにし、自身を起点に少しだけ離した位置で位置関係を固定する。


「お前、一体どんだけ魔力あるんだ?」


 一連の動作を見て、疲れた声色で呆れられる。

 こういう反応にも、もう慣れてしまった。

 ついでに、オークやゴブリンの遺体も、亜空間の中に放り投げておく。


「帰ったら話すよ」


 安全を確保した上でエリシアを背負い、ラナたちの後に続く。

 ウォルターは、僕とエリシアの後ろへと付いて、終始、背後を守り続けてくれた。



──セーフポイント──


「着いた〜ッ!」


 ラナは大きく背伸びをし、伸び伸びと到着宣言をする。

 無事に森を抜け、セーフポイントへとたどり着いた。

 戦闘中、余力を残していたラナは再び僕たちがセーフポイントにたどり着くまで魔力感知を発動して神経を擦り減らしていたのだから、そう背伸びしたくなるのは当然だろう。


「フラジール、頼むよ」

「はい」


 背負っていたエリシアを下ろし、看護の心得があるフラジールに後を任せて、僕はラナと共に一息つく。


「ラナ、さっき渡しそびれたけど魔力ポーション。どうぞ」

「ありがと〜リアムー。スリスリ〜 」


 労いとお礼の気持ちを込め、魔力ポーションを手渡すと、感極まったようにそれを受け取ったラナが抱きついてきて、頬を擦り付けてくる。


「ハッ!カリナの気配ッ!?」

「エッ!姉さん!?」


 突然のラナの警戒に、僕も思わずキョロキョロとカリナを探してしまう。


「ハハハ〜……いるわけないかッ」


 カリナが旅立ちもうすぐ4ヶ月。

 ラナが僕に甘えるとカリナが怒る!……という今までの習慣がまだ彼女にも僕にも染み付いているようだ。


「というわけで再びスリスリ」

「手紙に書くよ?」


 別にラナのスリスリが嫌だと言うわけではないが、今はそんな気力も元気もない。


「おっと〜それは無しで!あっちでポーション飲んで休んでるね〜」


 ラナはおどけて飛び退くと、ニコリと笑顔を残してから行ってしまった。


「リアムさん、回復魔法は使えますか?」

「ごめん。ポーション作りでレベルは上がってるんだけど、人に使ったことがなくて」

「では、不躾がましいのですが……中級より上の回復ポーションを持っていたりはしますか?」

「それならあるよ……はいこれ」

「ありがとうございます 」


 中級の回復ポーションでは、エリシアの回復には足りなかった。

 この上級ポーションはまだ練習中。

 効果を均一にして作れた本数は10本あるかないか、マレーネにお墨付きをもらった上級ポーションでも一番出来の良かったものをフラジールに渡す。


「僕もいくよ」


 ポーションを受け取ってエリシアの元へ向かうフラジールに、エリシアが心配であったため付いていくことにする。


「ウォルターさん、エリシアさんの頭を少し上げて差し上げてください」

「こうか?」


 セーフポイントの簡易テント応急処置場のベンチに寝かされたエリシアの頭を下から支え、ウォルターが彼女の頭を少し上げる。

 それでも起きることもなく、エリシアはスヤスヤと寝息を立てている。

 呼吸は安定しているようだった。


『これは……』


 穏やかとも言えるほど気持ちよさそうに寝息を立てるエリシアの露出した腕や脚、そこに僕は見たくなかったものを見てしまった。


「はい、それでは……エリシアさん、飲んでください」

 

 フラジールが上級ポーションの蓋を開け、エリシアの口元へビンの先を近づける。

 専門の看護師のように丁寧に、少しずつポーションを回復体位をとるエリシアの口の中へと注いでいく。


「ング……ゴク」

「すごいな」

「上級のポーションは凄まじいですね」


 しっかりと、着実に自分でそれを飲み込んでいくエリシアの肌から火傷の跡が引いて、目に見えて効果を発揮する。


「……」


 僕は黙って見ているだけだった。

 森の中で彼女を受け取った時、僕は急いでいたせいか、それとも戦闘後で興奮していたのか、彼女の様子をじっくりと見ることはしていなかった。

 故に、この光景がただただショックであった。


『リヒテンベルクの……そうだ』


 痛々しい跡が次々と引いていく様が、僕に、跡はつい最近できたものだと実感させる。

 できたばかりだから、こんなに早く簡単に治る。

 そんな筈はないのに、紐付けずにはいられない。

 よく見れば、エリシアの服のあちらこちらが焼け焦げたように穴を開けている。

 リヒテンベルク図形は、雷が起こす樹上に枝分かれするような放電の図形で、雷のような強い電撃に打たれた人に現れる特有の紋であったはずだ。


 エリシアの腕や脚に刻まれた葦の穂先を重ねたような雷が、薄れていく。 

 僕はその引いていくリヒテンベルクの傷跡をじっと見つめる。


 人を傷つけた。


 誰が…… ……自分が。


 誰を…… ……エリシア。


 なんのために…… ……助けるために。


 自問自答し、今更になって彼女を傷つけてしまったという実感が込み上げてくる。


「ん……?」


 こちらの自責も他所に、何事もなかったかのように、眠っていたエリシアが目を覚ました。

 腕や脚に見えた傷跡も、すっかり綺麗になくなっている。


「良かった……あッ! 早くこちらのポーションも飲んでください」


 エリシアが目を覚ましたことで、ホッと胸を撫で下ろすも、甲斐甲斐しくフラジールはポーションが入った瓶を更に2つ、探索前に僕から受け取っていた解毒と魔力安定のポーションをエリシアに勧める。


「ング……ング……はぁ〜、これおいし〜」


 ジュースを飲み干すようにゴクゴクと美味しそうに飲む。

 味はレイアと探求した。

 あれはベリー味にオレンジ味だ。


「何があったか覚えてますか?」


 健康状態を確認するための問診が始まる。


「うーん……あはは〜、ゴブリン達を倒したところまでは覚えてるんだけどそれからは……」


 フラジールの問いに、エリシアの体が震えたような気がした。

 苦笑いだ。

 明らかに、様子がおかしい。

 あの時も、今も……。


「そうか、とりあえず回復して良かった」


 それでも、ウォルターは、まずはエリシアの回復を第一に喜ぶ。

 それから、フラジールとウォルターと、腰を落ち着けて彼女にこれまでの話を聞かせる。


「意識が乱れた理由について何か分かるか?」

「……わからない」


 一通り話し終え、再びエリシアの問診が始まる。

 自分の異常の原因について尋ねられたエリシアは俯き、心当たりがないと繰り返すだけだった。


「ウォルターさん、とりあえず今回は早く戻ってダンジョンから出ませんか? またエリシアさんや私たちに何かある前にそうした方がいいんじゃないかと……」


 ここまではっきりと僕やアルフレッド、エリシア以外に自分の意思を伝えるフラジールは珍しい。

 おそらく今回一緒に探索をしたウォルターやラナのことを、大分信頼したのだろう。


「おっ! 起きたんだねエリシア!」


 休憩から戻ってきたラナの明るい声が、テントの中に響く。


「愚民が、ようやく目を覚ましたか!」  


 タイミングよく、ギルド駐在所へ、擦りつけてきた冒険者の報告と抗議に行っていたアルフレッドも戻ってきた。

 いくら病み上がりであったとしても、アルフレッドのエリシアに対する態度は相変わらずだ。


「ギルドの駐在員に報告してきたぞ。とりあえずギルド側でも調査、判断したのちにもう一度話し合いをすることになった」


 皆に報告するアルフレッドはどこかイライラし、心ここにあらずのようだった。

 ギルドの煮え切らない対応に対し直ぐに決着をつけられるよう持っていけなかったことが悔しかったようだ。

 彼は「今度何かあった時には論破し倒してやる」と密かなリベンジに燃えていた。


「オークとゴブリンメイジの素材は証拠品としてギルド本部に提出するように、だとさ」

「じゃあじゃあじゃあ、回収したオークとゴブリンメイジは没収ってこと?」

「まあそうなるが、後から有り余る何らかの褒賞が出るだろう。そうでなければスプリングフィールド家の一員として、この僕が許さん」

「おぉー頼もしいじゃないのー、このこのー」

「や、やめろ!僕が家の名前を濫用している用じゃないか!」


 いつもは堂々と、家の名に胸を膨らませているアルフレッドが、自由奔放なラナに頼りにされて間違った使い方はしていない筈だと、反省している。

 そんな彼を見ていると、救われる。

 僕が今、身を置く空気は、普段と比べると、僅かに怪しい匂いを漂わせているのだと、感じさせてくれる。

 

「折角、私を助けてくれてまでリアムが倒してくれたのに、残念ね。もし私の状態が悪くなかったら情けないアルフレッドの代わりに抗議してあげてたのに」

「言うな。僕の方がお前より上手くできているに決まってる」


 まるで作った様な笑顔で残念がるエリシアだったが、話の中に加わろうとしてくれている努力を感じ取った皆が、ホッと笑みを浮かべる。


「何だったらオークも私一人だけでも」

「ふざけるなッ!」


 大声に、応急室が騒然とする。


「状態が悪くなかったら?そんなもしもで起きてしまった事実は変わらない!そもそもそんなことを言うのなら、初め逃げていた時にエリシアが止まらなければ避けられた事態だった」


 今、ブレーキをぶっ壊して彼女に怒鳴っておきながら、それは矛盾している。


「一人でオークを? エリシアは覚えていなかったらしいけど、君は一人で突っ込んで行って簡単に捕まってしまったじゃないか!」


 これは怒鳴って言わなければならないことなのか。

 何故、僕は彼女がいつもと違う様子に気づいていながら、中止してまで聞き出そうとしなかった。

 

  ── 関心がなかったから?


 ……違う、触れて欲しくないことに触れて関係を壊すのが怖かったからだ。


「それに助けてくれてまでって……」

「リ……リアム?」 

「僕は君を助けたんじゃない!」


 黙り込んでしまった僕の名をエリシアが口にする。

 彼女が僕の名前を呼んだだけで、ムカムカする。

 タガが外れたように声を荒らげる。

 僕はエリシアが気絶した後も一番近くにいたはずなのに、それに気づかず別のことばかり考えていた。


「傷つけ……ッ!」


 傷つけて。

 口にしようとした途端、怒りは急に冷めていき、急に怖くなった。


「傷つけて、殺しかけたんだ!」


 歯止めが擦り切れてしまった。

 ぶっ壊れてた。

 恐怖から逃げるためだけに言葉を振り絞り、罪について自白する。


「おい!お前は悪くない! あれは必要な攻撃だったし、普通なら誰か一人は殺されててもおかしくなかった!」


 ……やめてくれ。

 慰めないといけなくなる。


「俺たちは今お前のおかげで一人欠けることもなくここにいるんだ!」


 少なくとも僕には気休めに聞こえてしまった。

 自責の心にウォルターの慰めが染み渡る。


「僕は……エリシアを、傷つけた……」


 傷つけたことを悔いているはずが、現在も彼女を傷つけようとしているのに、止まれない。

 如何しようも無い感情のジレンマに揺れる。

 必要な筈だった。

 だったら、どうして……それほどまでに、僕は、彼女を傷つけることが怖かったのだろう。

 そして、怖がっているのだろうか。


 ふと静まり返る応急室で顔を上げて、皆の表情を見渡した。

 心配そうに僕を見つめるラナ、関係が壊れてしまいそうなことに怯えるフラジール、悔しそうに己の無力さに肩を震わしていたアルフレッドとウォルターがいた。


「私……」


 そして、目に涙を浮かべ、今にも泣き出してしまいそうなエリシアがいた。

 今まさに、僕は彼女を傷つけている。

 人を傷つけるのが怖いとのたまいながら、言葉で人を傷つけている。


「ゴメン」


 一言、呟いて走り出した。

 風に吹かれている葦の音のように、気持ちが騒ついている。

 いきなり怒鳴ってしまったことへの羞恥か、場の雰囲気を悪くしてしまった事に対する気まずさからか、はたまた再びエリシアを傷つけてしまったことからの罪悪感からなのかは、はっきりしない。

 それら全て混ぜて濃縮したような感情に押しつぶされそうになりながら、僕は傷つけたメンバーを残してそこから逃げ出した。

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