『戦跡の丘 ~paysage No.8~』

片喰藤火

『戦跡の丘 ~paysage No.8~』


注釈)

トワール  =カンヴァス

シュヴァレ =イーゼル

ペイザージュ=paysage。風景。トワールの規格。



『戦跡の丘 ~paysage No.8~』



「拝啓、あなたの見る世界が、どうか光に満ちた温かい世界でありますように――」


 突き放されたように思ってしまいました。

 何故なら、もう二度と会えない様な書き方だったからです。

 まるで最期の願いを託すかのような……。


 手紙に書かれた文章を何度も読み直しました。

 検閲された手紙ではありましたが、文面に問題はありませんでした。

 しかし、消印が一ヶ月も前だったのです。


 先生は今、国境近くの町に住んでいました。

 隣の国との戦争が始まってからは危険だと言われていた町です。この町にも避難して来る人が多数いました。

 先生も違う町へ行くのかと思っていましたが、手紙には引っ越すとも疎開するとも書かれてはいませんでした。

 只管に私を心配する内容ばかりでした。

 私は直ぐに先生が住んでいる国境近くの町へ向かいました。


 列車に揺られながら窓の外を眺めていました。大きな川沿いを走っています。

 その雄大な川を眺めながら、私は先生と初めて会った日の事を思い出していました。


 先生と初めて会ったのは市場の外れにある下水が川に流れ込む汚い場所でした。

 その日私は、いつものクズ拾いをしていた時、たまたまそのクズの中に鉛筆と小さいクロッキー帳があったので、

 一枚ぐらいいいだろうと、収集屋へ持っていく前にそこで落書きをしていたのです。


「お嬢ちゃん上手いわね」

 驚いて振り向くと、そこには瀟洒な女性が笑顔で立っていました。

 父さんが「笑顔で近づいて来る奴は詐欺師か人買いだ」と言っていたのを思い出して警戒しましたが、

 その女性の笑顔はとてもそう言う風には見えなかったので、取り合えず絵を褒めてくれたお礼を言いました。

 女性は「美術館を探しているの」と言って、私に道を聞いたので、そこまで案内する事になりました。

 

 私が住んでいる町は、大きな川へ流れ込む幾つもの小さな川の狭間を縫うようにして建てられた町でした。

 中心部には大きな教会がありました。しかし、中心部から外れると貧しい人達が溢れ、伝染病も蔓延するような貧民街でした。

 道すがらその女性に名前や歳や住んでいる場所などを聞かれたので、素直に答えました。


 教会までの道は教会に施しを貰いに来るので良く知っていました。美術館は教会の脇にあります。

 「ここ」と指を指すと、その手に幾らかのお駄賃を握らせてくれました。

 

「私はここでしばらく働くのだけれど、絵も教えようかと思っているの。良ければあなたは生徒第一号にならない?」

 私はお金が無い事を告げて断ると、特別に無料だと言ってくれたのです。

 この時に瀟洒な女性は私にとっての先生となりました。 


 私はなんだか嬉しくて、嬉しいほど貧民街へ帰るのが憂鬱になりました。

 そしてクロッキー帳は収集屋へ売るのは止めました。


 家に帰るとすぐに父さんに殴られて、貰ったお駄賃と収集屋で換金したお金を取り上げられました。

 父さんは私が抱えていたクロッキー帳も取り上げましたが「なんだこりゃ」と言った後放り投げて、飲み屋へ行ってしまいました。


 寝室に入ると母さんがベッドに横になっていました。母さんは病気でガリガリでした。

 母さんに今日の出来事を話すと「よかったねぇ。すまないねぇ」と繰り返すばかりでした。

 下水の風景を書いた次の頁は、病に臥せった母さんを描きました。父さんは拳を振り上げている所を描きました。

 二枚の絵を描けて満足したのを覚えています。

 貧民街ではどこの家も似たようなもので、両親から殴られないだけマシだと思えたのです。


 次の日、クズ拾いや市場の荷運びの手伝いをして日銭を得た後、美術館の閉館時刻を見計らって先生を尋ねました。

 少し待たされた後、先生が裏口から出てきました。

 先生の家は市場の近くのアパルトマンに部屋を借りていました。

 昨日は、道に迷っていた所で私を見つけたのだと言っていました。


 先生の部屋はまだ荷物が整理されていませんでしたが、シュバレやトワール、パレットなど、絵に関わる道具は綺麗に整えられていました。

 私は昨日描いていたクロッキー帳を見せました。

 先生はクロッキー帳を見て顔を顰めて言いました。

 「本当なの?」

 私は「どこの家もそんな感じだ」と答えました。

 先生は哀しそうに溜息をついた後、笑顔になって「授業を始めましょう」と言いました。


 最初はデッサンを教えてくれました。基礎で一番大事だと言う事でした。

 私はクロッキー帳にデッサンをしてみました。

 絵の描き始めでこれはおかしいと先生が言いました。

「貴女はもしかすると風景を記憶する力が、他の人よりも優れているのかも知れない」

 世界にはそういう人が稀に居るようです。

 先生は喜んでくれましたが、自分では意識した事はないし、何よりもお金になりません。

 ただ、先生が喜ぶと、とても嬉しかったのを覚えています。


 帰り際に先生が私に手紙を持たせてくれました。父さんに見せるようにと。

 封筒をぐるぐる回して文字を読もうとする私を見て、私が文字が読めないのを察してか、

次からは文字も一緒に教えてくれると言ってくれました。

 そして「ご両親は文字は読めるの?」と私に聞いたので「父さんと母さんは文字は読めたと思う」と答えました。

 それからパンを分けて貰えました。

 こんなに優しい人が世の中に居るのかと驚きました。

 絵よりも食べ物の方が当時の私には重要でした。


 家に帰ると、父さんに殴られてお金を取られる前に手紙を渡しました。

 手紙を読み終わると父さんは激しく机を蹴り飛ばしました。そして手紙をびりびりに破り捨てました。

 その後私を睨んで拳を振り上げましたが、何故か殴られはしませんでした。

 でもやっぱり今日もお金は取られてしまいました。

 

 破られた手紙を拾い集めて母に手紙と先生に貰ったパンを渡しました。

 母さんに手紙の内容を教えてもらいました。

 内容は、私をぶったら憲兵隊(Gendarmerie)に通報すると言う内容でした。

 父さんは何度か捕まった事があるので、憲兵隊が怖いのかも知れませんでした。

 その後母と二人で夕食を食べました。

 母さんはガリガリだけど、少し笑顔になった気がしました。

 母さんが良くなれば父さんは元の父さんに戻るかも知れないと思いました。


 先生の所へ通い始めて三ヶ月ぐらいが過ぎた頃。家へ帰ると珍しく父さんが居ませんでした。

 寝室へ入って母さんに父さんの事を聞きました。しかし返事がありませんでした。

 寝ているのだろうかと思いましたが、なんだか静かです。

 母さんの額に手を当てると冷たくなっていました。

 貧民街では毎日何人も亡くなるので、私は死を知っていました。

 知ってはいても、何か、どうすことも出来ない心細さがあって、実際どうすることも出来なくて、

 夜も遅かったけれど、先生のアパルトマンへ走って行きました。


 夜の街並みは昼間とは全然違いました。

 石造りの建物は巨大な牢獄のように思えたり、

 水の流れる小さな音も悪魔の笑い声のように聞こえたり、

 嗅ぎ鳴れているどぶの臭いも、更に濃い毒の様に感じて吐き気がしました。

 全てが不気味で恐ろしく、死に覆われているように感じました。


 先生の家のドアをノックすると「どなたですか?」と先生が尋ねたので、私は自分の名を言いました。

 そしたら直ぐにドアを開けてくれました。

 事情を話すと何も言わずに抱きしめてくれました。

 そして一晩、先生のベッドで一緒に寝させてもらいました。

 この安心感は何だろうか。先生の心臓の鼓動を聞き、私の心臓の音も聞こえて来て、私は生きている事を実感しました。

 母さんが死んだ哀しさよりも、生きていると言う安堵感で涙が溢れました。

 街で感じた死を駆け抜けて、先生の下で生きていると感じた二つの感覚は、生涯私の絵に影響を与えた物かも知れません。


 翌朝先生は私を教会に連れて行ってくれました。

 司祭様は凄く嫌そうな顔をしましたが、先生が美術館と誰かの名前を告げると急に笑顔になりました。

 笑顔になる理由は幼い私でも分かりました。

 きっとお金の事です。先生にとても申し訳ない気持ちで一杯でした。


 司祭様は直ぐに助祭を呼びつけ、葬儀屋さんに連絡を入れろと言いました。

 その後助祭を私の家に案内してくれと言いました。

 先生は美術館に事情を話した後に自宅に来ると言ったので、私は先に助祭を家まで案内しました。


 家に父さんが帰って来ているかもと思いましたが、父さんはやはり居ませんでした。

 きっともう帰ってこないと思いました。

 助祭は母さんのベッドの周りを整え、燭台に蝋燭を置いて火を点け、母さんに十字架を持たせました。

 助祭が「明日に納棺して教会へ運びます」と言って直ぐに帰ってしまいました。


 先生が来るのを待っている間、家にあった聖書を読もうとしました。

 三ヶ月程度文字を習っただけでは殆ど読めませんでした。


 聖書を読んでいるとドアをノックする音が聞こえたので開けると先生でした。

 先生に何かお茶とかを出さなければと思いましたが、私は来客をもてなした事がなく、茶葉も無く、せめてお湯を沸かそうとまごついていたら

「気にしなくて良いのよ」と言ってくれました。

 先生は母さんに祈りを捧げた後、明日の葬儀は先生が喪主になってくれると言う事を聞きました。

 それから先生が「今晩家に居ようか」と私に尋ねました。けれど、私は断りました。

 今晩は母さんと二人で過ごさなければ……と、なんとなく思ったからでした。

 先生も承知して、その日は別れました。


 次の日に葬儀屋さんが来て、母さんの遺体を棺に入れて、教会へ運んで行きました。

 私も一緒に行きました。

 貧民街では遺体を丁寧に扱われる事はあまり無いので、近所の人達が不思議そうに見ていた表情をよく覚えています。

 

 教会へ着くと先生が黒い服を着ていて、私にも黒い服を用意してくれました。

 参列者など居ないと思っていましたが、美術館の人や市場の人も見かけました。

 皆母さんの死を悼んでくれていました。


 葬儀は聖歌を歌う事で始まりました。私は聖歌を知らなかったので、皆に合わせながら小声で歌いました。

 その後司祭様が聖書の言葉を述べた後、パンとワインが配られました。

 死は生の始まりで祝福であると言われてもあまり理解できませんでした。

 献花した白い花は皆の優しさなのでしょうか。

 母さんは生きてこの優しさに触れる事はできず、天へ連れて行ってしまう神様は酷いものだと心の中で思ってしまいました。

 神様なら貧富の差や理不尽な現実を何とかしてくれたら良いのですが。


 弔鐘が鳴り響き、葬儀は正午に終わりました。

 教会の裏の墓地に母さんを埋葬して、無事に終える事が出来たようです。

 葬儀の後、先生の家へ行きました。 

 先生はしゃがんで私に目線を合わせ、真剣な表情で言いました。

「貴女にこれを上げます。そして少し町の外を歩いてみましょうか」

 絵具のセットでした。持ち運びできる鞄タイプのものです。

「それからこれ。ペイザージュの8号。あなたと同い年よ」

 トワールのサイズは八歳の私にとっては大きく感じました。

 贈り物を貰ったのは生まれて初めてでした。でもどうして私にこんなに良くしてくれるのかと訊きました。

「あなたは、あなたの目は、風景を見るのには優れています。けれどまだ心を見るには慣れていないようです」

 私は父さんに殴られて嫌だとか母さんの死は恐かったと感じていると伝えました。

 それから先生にして貰えたことは全て嬉しいとも伝えました。

 先生は頷いて、私が三ヶ月描いてきた絵を見返しました。

 私が描く絵は当たり前にある風景でした。しかしそれは「普通の人」にとっては暗鬱とした物に写るようです。

 先生は寂しげに笑った後にこう言いました。

「悪い事ではないし良い評価を貰える事もあります。しかしそれは自らを苦しめる事にも繋がります」と。

 先生はそれを持って町の外へ連れだしてくれました。


 町の外は澄み切った風が吹いていて、どぶ臭くありません。

 空は建物に区切られておらず何処までも続いています。

 心が世界に溶け込んだように感じました。

 私はそこで生まれ変わったように感じ、今まで以上に真剣に絵に取り組もうと思いました。


 それから三年間、先生にあらゆる事を教わりました。

 絵だけに限らず算術や化学、社会や地学など「普通の人」が教わるべき事柄以上の事も。


 三年経ったある日、先生は別の美術館に転勤する事になりました。この街からは遠いので、列車で行かねばなりません。

 私は美術館の伝手で工場の仕事を斡旋して貰い、一人でも暮らせて生けるようになっていました。

 ただ、先生が側にいる事によって描けていた絵が書けなくなるかもしれないと思うと怖いと思いました。

 先生は「あなたなら大丈夫」と言って笑顔で列車に乗っていきました。


 先生が転勤してから一年……。

 最初の数か月は手紙が良く送られてきたけれど、それからはぱたりと手紙が届かなくなりました。

 先生は大丈夫だろうか。

 そう思った時に警笛が鳴り響き。列車が停まりました。

 軍の規制線が張られていて、関係者でないとそれ以上は進めないとの事でした。


 私は遠回りして規制線を掻い潜り、歩いて前線の町へ向かいました。

 先生が住んでいた町は遠くからでも煙が上がっているのがわかりました。

 先生が手紙を出してから一ヶ月経っていても、戦闘は断続的に続いている様子でした。


 町は砲撃や爆撃、銃撃の痕が生々しくて、殆どが瓦礫になっていました。

 遺体も所々に散らばっていて銃声も時々聞こえてきます。

 なるべく身を低くして先生の住所のアパルトマンまで辿り着きました。

 アパルトマンは崩れていました。

 必死に先生を探しました。けれど先生は見つかりませんでした。

 先生の遺体も見当たりません。逃げる事が出来ていたら良いのですが。

 次は美術館の方を探そうとした時、瓦礫が頭にぶつかり、私はその場で意識を失いました。


 気が付いた時は敵国の野戦病院でした。

 敵国の兵士に運ばれたのかも知れません。兵士に酷い扱いはされなかったようです。

 ベッドに仰向けになりながら手紙の事を思い返しました。

 先生は覚悟をしていたのかも知れません。何か、この町に留まる覚悟を。


 私が目覚めたのに気が付いた従軍看護婦の人が何か話しかけてきました。

 敵国の言葉でよく分かりませんでしたが、元気なら早く退いてくれと言う事のようです。


 荷物はベッドの脇にありましたが、抱えていたクロッキー帳がありません。

 探すと隣の兵士が私のクロッキー帳を見ていました。

 返してと言うとすぐに返してくれました。

 褒めてくれているようでした。

 お礼を言うとその兵士は胸ポケットから拉げた敵国の貨幣を一枚くれました。

 言うなれば最初のお客様だったのかもしれません。

 言葉が通じなくても絵を通じて分かり合えるのだと思いました。

 クロッキー帳から一枚切り取って、それを兵士に上げました。


 野戦病院の入り口に居た兵士に「お前はあっちへ行け」と言う風な手振りをしてました。

 この街の子供達は戦争孤児として教会の孤児院に保護されているようでした。

 保護と言うか押し込められている感じです。

 私は背が低かったので子供扱いをされたのでしょう。

 

 子供達は内地に送り込まれて強制労働をさせられるとか、皆殺しにされるとか、そう言う声が聞こえてきました。

 どうしたものかと考えると、デッサンは大事だと言う先生の教えが頭に浮かんだので、クロッキー帳を広げ、取り合えず列車から見た風景を描きました。

 不安だった子供達の顔が少し柔らかくなりました。


 先生は戦争による不安を絵によって和らげようとしていたのではないか。

 その時の私は、そんな事は思っていませんでしたが、今思うとあの手紙がこの町に留まる決意の証だったとも考えられます。

 だからこそ先生は私に願い、私の行く末を案じたのでしょうか。


 私達は近くの町に護送され、そこの工場で働かされました。

 強制労働とは言っても住んでた町でやっていた事と同じような仕事と待遇だったので慣れたものでした。

 ただ、私より小さい子達はつらそうでした。

 私は合間合間にとにかく絵を描いて励ましてあげました。工場の人達にも絵を描いてあげました。

 するとその町の教会に私の絵の事が知られて、幾つか依頼を頂きました。

 教会には報酬の代わりに工場の作業時間をもう少し短くしてくれるようお願いしてくれないかと頼みました。

 後日教会から工場に嘆願をしてくれました。

 戦争中であっても教会の力は多少あったようです。そのおかげで、少しだけ工場の仕事も楽になりました。


 それから一年間はその町で暮らしていました。

 元々住んでいた町でも敵国の言葉を喋る人が居た事もあり、言葉はある程度喋れるようになりました。

 

 その町では、私は先生の手紙の願いの通り、優しい絵を描くよう努めました。

 敵国の兵士達にも沢山描いてあげました。

 その絵を見て家族を思って泣く人。故郷を思って泣く人。想い人が恋しくて泣く人。

 こんな優しい人達がどうして殺し合うのか……。

 私には訳が分かりませんでした。 


 程なくして、祖国との連合軍がやって来て、この町も戦場になりました。

 私はどっちがどっちの国なのかわからず、混乱したのを覚えています。

 最終的に連合軍側の兵隊に保護されました。兵士が私の身元を聞くとその町は解放されたと言い、私は元の街に戻されました。

 そして戦争は連合軍側の勝利と言う形で終わりを迎えました。


 私は戦争の後、祖国を巡りました。

 各地の話や戦争の跡を見て、どれほど自分が運が良かったのかを実感しました。

 虐殺、略奪、おおよそ人間がそんな悍ましい事など出来るのかと思えるような、酷い惨劇が繰り広げられている所もありました。

 そして訪れる町で、温かく優しい気持になれるような絵を沢山描きました。

 各地の街で私が絵を描いていることが話題になり、新聞にも取り上げられたりしました。

 すると絵を買ってくれる人が増え、個展も開いてもらえたりしました。


 そして半世紀が経ちました。

 巡り巡って、先生が最後に居た町へ戻って来たのです。

 嘗て国境の町だった丘は、建物の瓦礫が点々と戦争の痕を残しているだけで、自然がそれらを労わるように覆っています。

 草花がそよそよと靡き、コクリコ、マルグリーテ、シャニス、ミモザなどの花が鮮やかに咲いていました。


 先生の願いは叶っているのでしょうか。

 私は生き残り、老いて死を目前に控えていてもまだ分かりません。

 人々が争い、多くの犠牲の下で光に満ちた温かい風景があるのでしょうか。


 先生は救いでした。それなのにその救いは戦争と言う現実に潰されてしまった。

 私の人生は先生と共に過したあの三年間が何よりも光に満ち溢れた温かい世界でした。


 私は大切にしていた手紙を読み直しました。

「拝啓、あなたの見る世界が、どうか光に満ちた温かい世界でありますように――

 今あなたが描く世界が、どうか色彩に溢れた優しい世界でありますように――」


 今わたしが描く世界は、色彩に溢れた世界です。けれど世界は優しくはありません。

 だから私は、私自身に優しさを与えてくれた先生のように、誰かに優しさを与えられる存在になろうと生きてきました。

 そうしてきた事で、私の絵を優しいと言ってくれる人が沢山居たのかも知れません。

 私は、持ってきたペイザージュ8号に今の風景を描きました。


 描き終わった時、微笑んだ先生がそこに居ました。

 私は嬉しくて涙を流し、「先生」と駆け寄りました。

 その響いた声は老いて擦れた私の声ではなく、若い時の私の声でした。

 私はその丘の光に満ちた温かい世界へ走っていきました。



―― Fin ――



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『戦跡の丘 ~paysage No.8~』 片喰藤火 @touka_katabami

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