第35話 4人の決着

 恋人と伴侶の違いは何か、考えた。そしてひとつの結論に至った。


 ――恋人はその人が好き、伴侶はその人との人生が好き――


 犬井さんの気持ちは嬉しい。切実だとも伝わってくる。こんなに清らかで美人で、健気な女の子に好かれたなんて、今でも信じられない。本当に、俺を真正面から見てくれていた。それに感謝したい。

 けれど、だからこそ重圧にきっと耐え切れない。それはお互いに、だと思う。どこかでつまづいたら、そのまま折れてしまう。俺は彼女の期待にずっと応えていける自信がない。そして犬井さんも、恋人のままではいられない。伴侶になってぶつかった時、熱いからこそ一気に冷める……。そんな予感がした。


 若葉先輩はいつも温かくて、心地よくて、でも繊細な部分もあって……魅力的な人だ。優しく受け止めてくれる先輩となら、細く長くゆるくやっていけると思える。こんな俺の背中を押してくれて、感謝が絶えない。

 けれど、伴侶は違う。それは、推しに似た気持ち。一緒になりたいわけじゃない。『お互い幸せでありたい』『ともに頑張っていきたい』――そう思える仲だ。けれど、例えるならば、川を挟んでたまに手を振り合うくらいの距離感がいい。


 肩を並べて一緒にいたいと思えるのは、星浦だった。星浦が一番、何でも言い合えると思ったから。一番、同じ力で支え合えると思ったから。一番、ケンカできると思えたから。


「うちおばさんだけど」

「おじさんおばさん同士、これからの人生頑張っていこうよ」


 そう返す俺の顔が窓に浮かぶ。


「……いいんだね。うち、もう本気だから」


 けたたましいベルを鳴らし、動き出す列車。そして星浦は振り返って俺を見据えた。


「後悔しない?」


 光が揺れる、瞳


「しない。絶対」


 言いながら、右手で彼女の手を取る。


「うちも、絶対しない」


 昨夜と同じく、握り返される手。体温が交わって、熱くなる。 


「……あゆみでいい。うちも、和明って呼ぶから」

「あゆみ…………さん」

「……さん、は付けたままでいいや。うちも和明さんにする」


 夕暮れ時の中を走っていく列車。大洗が、日下部さんのお墓がどんどん遠くなっていく。


「ひとつ、お願いがあるの。いきなりで悪いんだけどさ」

「……なに?」


 覗き込んできた瞳に、顔を寄せた。


「小説書いてよ。それで、うちに声当てさせて。全然、脇役でいいから」


 笑っていなかった。一直線で俺を射抜く視線。

 本気。もう茶化さないと決めたのだ。幼くて儚い夢に賭けてみると。


「……わかった。やるよ!」


 伴侶として。そして俺自身のために、もう一度やってみる。まず勘を取り戻すために、小説の写経でも始めるか。


「……ごめんなさい」


 前方から声が聞こえた。あゆみの目の前で、震えている声。車両の端、窓際の彼女。


「……犬井さん」


 問いかける。顔は見えないし、彼女も見せなかった。


「……私、やっぱり素直に祝福できません」


 今にも破けてしまいそうな、張りつめた声色。


「花琳ちゃん」


 俺の前に座っていた先輩が、彼女の肩に触れた。座席の隙間から俺たちに向けて、ウインクする。「任せて」と。俺たちは何も言わず軽く頭を下げた。


「泣いていいんだよ」

「泣きませんよ! みっともないですすから」

「偉い。でも、無理しなくていいからね」


 犬井さんは体を捩り、窓にくっつけた。


「……私は、悔しくて……でもうれしいんです」

「いい子だねぇ、君も」


 先輩はふふっとひとつ笑って。


「でも楽しかったでしょ。それで、いいじゃない」


 犬井さんは、無言のまま頷く。


「……これだけは言わせてください」

 濡れた声。そのベクトルは俺に向けられていた。

「絶対に幸せになってくださいね」

「……はい」


 しっかりと腹に力を込めて、俺は答えた。



 上野駅に着く頃には、宵闇に染まっていた。


「じゃあ、私たちちょっと飲んでいきますね」

「うん、まだ宇野さんからの軍資金が残ってるからね、ちょっと高めなとこ行っちゃうもん。いい店あんのよ~にへへ」


 宇野さんは粋な人だ、怒ることはあるまい。むしろ「パーっとやってけ」と推奨してくるまである。


「……じゃあ、俺らは」

「真っ直ぐ帰ります」

「……はい。では」

「また月曜日にね」


 手を上げ合って、俺たちは別れた。

 俺とあゆみは池袋に帰り、駅直結のデパ地下で弁当を買った。あゆみの家にお邪魔して、最近のアニメ事情からお互いの懐事情まで、色々と話した。笑ったり、愚痴を聞いたり、真顔で相談してみたり。

 そして――キスをした。お互いとも、ファーストキス。

 あゆみの柔らかい唇が、優しく受け止めてくれた。脳が痺れてくらくらしてくる。けれど、とろけるように心地よい。


「……なんか、ホールケーキを1秒で食べた気分」


 少しぼやける視界のまま、告げる


「あっ、今の文芸っぽい」


 あゆみは吹き出し、また笑った。俺もつられて、笑った。

 35歳同士、1泊の旅行でもだいぶ疲れる。その先は、体力がある時にすればいい。あゆみには明日の午後から仕事もある。日付が変わる前に、俺のアパートに帰ることにした。万が一でも邪魔したくない。


「それじゃ、今日はこんなとこで」

「こんなとこで」


 いつものあいさつをして別れる。これでいい、後の事はまた決めればいい。これからはずっと隣にいるのだから。

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