第36話 35歳からのぎっくり腰

 法律婚をするのか、それとも事実婚でいいのか。

 子どもはまだ作れるかもしれない。ならば作るのか、作らないのか。

 そもそも別居婚や週末婚という形もある。

 まずお互いに両親と話さないと。

 色々考えることは多い。

 けれど。あゆみと話した。

 とりあえず、ゆっくり今を楽しもう。そうやって順々に、ふたりでやって行けばいい。

 


「――俺は、星浦とともに生きることにしました」


 連休が明けて会社に出勤するやいなや、宇野さんに告げた。いわゆる上司への結婚報告というもの。緊張して声がずいぶんと上擦ってしまったが。

 宇野さんは一度頷き、


「頑張れよ、大変なのはこれからだ。特にわたしらみたいな、長いこと独身だったやからにはな」


 と、微笑んだ。


「しかし、まさか部下から俗にいう『一般男性』が生まれるとはねぇ」

「からかわないでください。自分が一番驚いてるんですから」


 そうなのだ。正式に結婚するとなれば、あゆみのことだからきちんとSNSで報告するだろう。よく言う『お相手は一般男性』。一体それは何ぞやと思っていたが、まさか自分がなろうとは。だから、というわけではないが、小説もいよいよ頑張らないと。もちろんあゆみは一般男性のままでも構わないのだろうけど、もう一度くらい本気で取り組んでみよう。


「雨見くん、いい顔になった……と言いたいところだが、そんなに変わらないな」

「そりゃあそうですよ」

「いや、変わらない方がいい。もともと君にはそのポテンシャルがあったんだから」


 意外な言葉。でも。


「ありがとうございます」


 褒め言葉は素直に受け取ることにした。


   ◆ ◆ ◆


 金曜日の終業間際。俺は給湯室にいた。

 連休に色々あって週1の給湯室の掃除を忘れていた。別に来週やっても大して変わりはしないのだが、中途半端に余った10分があるならばやっておこう。あゆみは『サラブレ』仕事で地方競馬場のトークイベントに呼ばれていて、前乗りですでに九州にいる。というわけで一刻も早く帰ってラブラブ、みたいな展開もないし。

 まずウォーターサーバーの残量からチェックする。と、もうほぼ空だった。在庫も1個しかない。


「――私も手伝っていいですか?」


 声に振り返ると、犬井さんが立っていた。腕まくりをして。


「いえいえ、ひとりで済みますから」――と答えようとして、口をつぐむ。


 いいじゃないか、手伝ってもらっても。誰かに助けてもらうのは、悪いことじゃない。


「……じゃあ、シンクの掃除をお願いできますか?」

「はい!」


 微笑んで頷く彼女。もっと早くから手伝ってもらえばよかった。

 俺は一度デスクに戻りウォータータンクを発注。その足で空のタンクを外す。床に置かれた残り1個のタンクをゆっくりと持ち上げ、漏斗状の口を差し込む――


「あっ」


 足がもつれた。床が迫ってくる。視界が揺れる。ドゴンッ! と、とんでもない音がした。


「雨見さん!?」


 犬井さんの顔が降りてくる。目を見開いて、声を震わせて。以前にも見た表情。


「だ、大丈夫です。ちょっとバランスを崩しただけで」


 視界の端に転がるタンク。額の角が痛む。どうもぶつけたらしいが大したことはない。手足に力を込め、立ち上が――れない。

 ……あれ? 足に力が入らない。というより、どこかで脳の命令が拒否されてるような。


「って……」


 痛い? いや、痛い。痛い痛い痛い!


「いた、痛いっ……!」


 腰がめちゃくちゃ痛い! 背骨を万力で絞られているみたい!


「大丈夫!? すごい音したけど!?」

「どしたどした?」


 若葉先輩と宇野さん。声だけで何とか判別する。首は痛くもなんともないのに、動かせない。


「雨見さんが、ウォーターサーバーを変えようとしてこけちゃって……!」


 震えた犬井さんの声。


「……腰、やっちゃいました……」


 かろうじて口だけを動かした。それも半開きがやっと。


「ぎっくり腰か……御愁傷さま……」


 宇野さんの妙に冷静な声だけが耳に入った。……マジ、どうしよ、コレ。

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