第31話 37歳の感謝

「あーごめん……大丈夫だから」


 ラウンジの安楽椅子に座る先輩。目を閉じてぐったりと、力なく。


「水、買ってきましたよ」

「ありがと……」


 星浦からペットボトルを受け取り、コクンコクンと喉を鳴らした。


「ごめんね、もう平気」

「でも無理しない方が……」

「もう旅館のチェックインの時間じゃん? とりま行っちゃおうよ」


 先輩は15時にチェックインすると先方に伝えているとのこと。それならばとセンターを後にした。旅館はここから徒歩15分ほど。


「あ、危ない!」


 だが結局、道の途中で先輩はふらついた。めまいらしく、とっさに肩を抱いて受け止める。


「ご、ごめんね……」

「じゃあ私、星浦さんと荷物持って先に旅館に行っときます」

「雨見、あとで若葉さん連れてきて。ゆっくりでいいから」


 わかった、と応えてふたりを見送る。俺は先輩の肩を抱き、公衆トイレしかない猫の額ほどの小さな公園に寄った。そのベンチに先輩とともに座る。。


「……やっぱ外見より、臓器の方がごまかせないんだね。酔ってのぼせるとか、恥ずかし。でも和明くんの前だけなら、ちょっと安心かな」


 ふふっと苦笑を漏らしながら、先輩は俺に寄りかかる。


「なんか飲みますか? 買ってきますよ」

「ううん大丈夫。水分は足りてるから」


 唐突に、先輩は左手で己の目を覆った。


「でも、あたしの今の顔は……あんまり見ないでね。すっぴんだから」

「え、でも、この前は別に……」

「あの時はまだ……確定してなかったから」


 言われた通り、前を向く。ふと左手が握られても、動じずに。


「……ありがとね。池コス」

「いえ、大したこともできなくて」

「ううん、そんなことないよ。当日のこともそうだけど……やっぱ和明くんを信じて、参加してよかったな、って」

「なら、幸いです。本当に」

「楽しかった。違う自分になるのってやっぱ楽しい。コスプレを続けるかはまだわからないけど……でも、一旦休止中ってことにする。すっぱり引退するのは、もう少し先でいいかな」


 弾む声で、俺はもう十分うれしかった。


「それと、トラウマを克服できたこともお礼言わなくちゃ」

「トラウマ……昔、付き合ってた人に、いい年してコスプレなんてって言われた話ですか」


 つい先輩の方を向こうとして、あわてて首を止める。


「そ。忘れることはないけど、気にもならない。すっかり上書きしたから」

「それは先輩自身の力ですよ」

「それでも、手助けしてくれたのは和明くんだよ。あたしのコスプレ、非の打ち所がないって」


 きつく握られる左手。おもむろに先輩が立ち上がった。


「やっぱり、見て。あたしのすっぴん」


 俺の前に来る。しゃがみこみ、上目遣いで目を合わせた。みずみずしい肌、健康的な赤い唇、光を凝縮した瞳。


「もう一度、人を好きなれる。和明くんのおかげだよ。その勇気が出たのは」

「……先輩」

「返事は後でいいから。今はふたり待たせてるし、行こっか」


 先輩に合わせて立ち上がる。夕暮れに染まりつつある空の下、ふたりで歩き出した。


   ◆ ◆ ◆


 1泊する宿は、駅近のこぢんまりとしたビジネスホテル風の旅館。令和の世に、部屋番号が彫られたアクリルバー付きの鍵がいい味を出している。

 部屋に入るとゆったり気分になってしまい、わざわざ外食に出るのも面倒というところ。夕食は近くのスーパーで調達することにした。みんなでパーティー気分で総菜を買い込み、女子部屋で夕ご飯。風呂は部屋についていないので、1階の共同風呂で浴びる。

 ジャージに着替えシングルタイプの自室に戻る頃、スマホが震えた。マインのメッセージ。


[もう1回、女子部屋に来てくれる?]


 女性を待たちゃダメだ。

 わかってる。現実問題として、女性の方がさまざまなリミットがあることも。

 わかってるけど――


「お邪魔するよー!」


 鍵を掛け忘れたドア。浴衣を着た3人が入ってきた。

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