第30話 35歳の覚悟

「おー! 海だぁー!」

「ちょっ、危ないですよ!」


 穏やかな太平洋の海。砂浜で先輩が走り出し、それを犬井さんが追う。年齢から言えば逆だと思うのだが。


「はしゃいでんなー」


 左隣、軽い声で呟く星浦。お互いに立ち止まってふたりの背中を見ていた。


「今さらな確認だけど、仕事は大丈夫なのか? ムリして空けたりしてない?」

「うん。来週はちょっと忙しいけど、今週は空いてた。暇な時は暇な商売よ。家にいても色々考えて不安になるだけだし、ちょうどよかった」


 星浦とゆっくり歩き出す。


「それに、聖地巡礼もやってみたかったし。ここのアニメは出てないけどね、残念ながら」


 苦笑し、星浦は左手側の海に顔を向けた。きらきらと光りながらも濁った色も混ざっている、複雑な色合い。


「……思い出したんだ」

「何を?」

「師匠……ていうか養成所の先生だけど、その人に最初に言われた言葉。あんたに『声優だってひとりの人間だ』って言われた時」


 星浦は海から前方へと顔を戻した。


「『われわれは声優である前に、ひとりの人間です。人間として価値ある人生を送ってください。自分の人生なくして、架空の人生は演じられません』――って」


 俺は声優ではない。演技経験すらお遊戯会くらいのものだ。

 それでも、言葉の奥行くらいはわかる。


「要は、うち怖がってたんだよね、ずっと」


 歩み続ける星浦に、俺も黙ってついていく。


「誰かを好きになること。自分が恋愛なんかに現を抜かしている間に、仕事が奪われるかもしれない。ううん、一番怖いのは、自分が変容してしまうこと」


 星浦は唐突に、キャスケットを脱いだ。茶髪のボブカットが光り輝く。


「おかげさまで、デビューしてからずっと順調に仕事は増えてきた。声優としての技量も覚悟もできてきた。けど、そんな自分が変わってしまったら。そのせいで、身に付けてきたことが一気に剥がれ落ちてしまったら……そう思うと、自分を変えられなかった。声優の仕事の幅は広がってる、けどやっぱり席は限られてる。第一線で生き残ってきた先輩に奪われたら、下から突き上げてくる若い子に持ってかれたらっ、て……」

「……ずっと頑張ってきたんだな」そんな当たり前なことしか俺は言えず。

「でも、思い知ったよ。災い転じて福となす、ってのかな。今回の騒動のことで」


 不意に、左手が温かくなる。


「うちは、そんなヤワなキャリア積んでない」


 星浦に握られていた。白く輝く、美しいマニキュア。


「フェイクニュースで変にうちの名前が広まったのは確か。でも『頼むから星浦さんの出てる作品見てくれ』って言ってくれた人もいたし、『これきっかけで星浦さんの出てる作品見てみて、感動しました! ファンになりました!』って言う人もいて。それに、あんたも若葉さんのコスプレ写真送ってくれたじゃん? うちの声はちゃんと届くんだって、やっと信じられた」


 手を握ったまま、星浦は少し前を行く。引っ張られる腕。けれど、俺も手は離さない。


「ちゃんと就業不能保険だって入ったし、ってそれは余談か」


 軽く笑いながら、立ち止まって俺の方へ振り返る。


「あとは、自分の弱さを認めるだけ」


 強く、痛いくらいに握られる。


「助けて欲しい時に助けてって言い合える人を、見つけるだけ」


 さざ波の音の中で、星浦の声がしっかりと届いた。


   ◆ ◆ ◆


 昼時。本来は回転寿司に行く予定となっていた。しかして、連休を甘く見ていた。


「空いてないねー」


 お目当ての回転寿司だけでなくどこも飲食店は満杯。それどころか、どこも店外まで並んでいる有様だった。カフェすらいっぱいの状態。


「どうしましょうか……」


 流されてたどり着いたショッピングモール。立ったまま4人で顔を突き合わせる。

 大洗にまで来てコンビニ飯というわけにもいかない。いや俺は構わないが、せっかく来た3人には申し訳ない。しかし、もうめぼしい飲食店は見たが――


「あ、そうだ」


 と、辺りを見回してみてひらめいた。お手頃な店がまだひとつある。


「――うん、おいしい!」

「さすが和明くん、盲点を突いてくるね!」

「なかなかナイスプレーだと思うよ」

「お褒めに預かり光栄です」


 俺が誘ったのは町営の健康福祉センター、そこにある食事処。平たく言えば健康ランドで、以前から気になっていた。純粋なレストランとは違うからか、幸運にもさほど混んでいなかった。食事処とはいえ、鮮魚市場から仕入れた素材を使っているとのことで、味は折り紙付き。それぞれお刺身定食や海鮮丼に舌鼓を打った。


「お酒にも合うね、これ!」


 そんな中、若葉先輩は米を食わず、まぐろの山かけやカニクリームコロッケを肴にビールを飲んでいた。瓶一本を開けていく。


「大丈夫ですか? 空きっ腹に入れたでしょ、先輩」


 俺の心配に「ダイジョブダイジョブ」と手を振る先輩。すでに頬が真っ赤だが……。

 食事の後、せっかくだから風呂にも入っていくことにした。いつもは足を湯舟から出さないと肩まで浸かれないワンルームの風呂。久しぶりにゆっくり全身で浸かる。何もかも吹き飛ぶ心地でひと時を過ごした。


 しかして、上がってみると。


「――雨見さん! 若葉さんが……」

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