第18話 37%のウイスキー
「西邑さんと付き合ってるの、越沼さんなの。声優の越沼みゆきさん」
「え、そうなの!?」
しがないワンルームに響く俺の声。俺の後ろに机、窓際の隅にテレビ、真ん中にテーブル、対面の星浦の背後にベッド。ユニットバスでお家賃は6万の俺の根城。
ここだけの話であんたを信じて、との前置きで、星浦は事のあらましを説明してくれた。
星浦が西邑さんと会ったのは事実。しかし、西邑さんと交際しているのは、懇意にしている2コ上の先輩声優・越沼みゆきさんだった。婚約した越沼さんは新居に星浦を呼び紹介したのだが、その時たまたま2人で買い物に出る機会があり、そこを撮られたのだ。どこからか西邑さんの交際の事実が漏れた時、伝言ゲームで越沼が星浦になり、記者が勘違いしたのではないか――とのこと。
「じゃあ完全なとばっちりじゃんか」
「そうなんだよ!」
吠えながら、すっぴんで豪快に宅配ピザにかぶりつく星浦。
「って話だから、今夜の内にでも正式な婚約発表があると思う」
なるほど、だから今夜だけか。部屋の窓から斜め下を覗くと、星浦のマンションの入口が見える。まだパパラッチはハエのようにうろうろしていた。
「……あれ、もしかしてコレ、アクスタ? どうしたの?」
ふと、部屋の隅に置いていた紙袋が見つけられて。
「それ、会社の人の私物で……西邑さん推しな人だったから」
「え、それはなんか……申し訳ない」
「いや星浦が謝ることじゃないから、大丈夫だよ」
「……今さらだけど、ごめんね」
「だから、別に」
「そうじゃなくて。あんた呼び出したこと」
星浦はアヒル座りで、組んだ手に目を落とした。
「うちの事務所は中堅どころだし、そもそも声優は相当な売れっ子でもない限り専属マネージャーなんかつかないから、すぐに頼れる人いなくて。事務所前にも記者張ってるって連絡あって、行って迷惑かけるのも悪いし。……仲の良い声優さんはいるけど、友達って感じじゃないの。同業者で、ライバルで、厄介事なんか持ち込めない。ホテルは名前書くのが怖くて……それで、雨見しかいなくて」
珍しく、ポツリポツリと、たどたどしい言い方だった。
「言い訳なんていらない。こんな俺でいいなら全然、頼ってくれていいから」
「……ありがと」
しかし顔は晴れず。
「……あんたも飲む?」
星浦がバッグから取り出したのは、有名なブランドのウイスキー。度数低めのタイプだが、それでも37%ある。
「明日も仕事入ってるけど、いいよね1杯くらいなら」
さすがにこの状況、少しくらい飲みたくもなるだろう。
「俺はいい。グラス用意するよ」
台所に立つと、なぜか星浦も立ち上がった。
「拙者、親方と申すは……」
外郎売りの口上。目を閉じて、腹から声を出していた。
たとえこんな時だろうと、やることをやる。そういう体になってるんだ。やっぱり、根っから声優なんだな――と思うと、なぜか俺がうれしくなった。
しかして、そんなポジティブな空気もすぐに終わって。
「……ハァ」
自販機で買っておいたコーラでコークハイを作り、星浦は一気に飲み干した。
1杯だけ――のはずが2杯、3杯と立て続けに呷っていく。
「なぁ、さすがにもうやめた方が……」
「くっそ!」
突然の叫びに、言葉が引っ込む。
「何がサラブレ声優だよ! ずっと前から声優やっとるわこっちは! どいつもこいつも好き勝手言いやがってさぁ!」
歯を食いしばったような顔で、グラスを持つ手は真っ白になっていた。
「どうせうちは脇役声優のおばさんだよ! 地味顔でかわいくねえよ! それでも、声優で食ってきたんだよ! 悪いか!」
言いながら、顔を腕に埋める。
「星浦……」
声を掛けたものの、どうしたらいいのかわからない。
でも、少し妙だ。記事は西邑さんの交際を伝えていただけで、星浦の容姿の評価までは言及してない。
もしや、と思い、スマホを取り出す。
「――っ」
何で今まで気付かなかったんだろう。
『地味顔おばさんきっつ』『にしむーも端役レベルの人と付き合うことないのに』『せめてアイドル声優ならお似合いで許せた』『大した役やってない、食わしてもらう気マンマン』『35ってマジ? 羊水腐ってるって久々に思い出したわ』『にしむーのDNA薄めないでくれます?』……。
星浦のトゥイッター。リプライは地獄と化していた。しかも、角煮カレーの写真にまで『匂わせくっさ』とリプライ。あの場にいたのはこんな寂れたアラフォーサラリーマンなのに。
「はー、くそくそくそ」
起き上がってシンプルに汚い言葉を吐き、唐突に足を俺の前に出した。
「疲れた、足揉め!」
「え、は、はい」
「……やっぱいい!」
引っ込める足。どうしろと。
「やってられるかよ」
ウイスキーのボトルを掴む。強引にキャップを取り、直に口に持って行く……。
「――星浦、やめろ」
ダメだ。それだけは。
その腕を強引につかんだ。それだけは、やめさせたかった。
「……あんたには関係ないじゃん」
「そう、かもな」
夫でも、恋人ですらない。俺がほっといても、公式に声明が出れば事は収束するだろう。
それでも、星浦あゆみのいちファンとして、友人として、ともに社会を生きる35歳の同志として。
「星浦は声優の前にひとりの人間だ。サンドバッグじゃない。こんなことでお前の声を嗄らせちゃダメだ」
瞬きせず、星浦は俺を見据えた。酔いが覚めたような、くっきりした黒い瞳で。
「お前にひどい言動をとった人間も大して不幸にはならない。だから考えるだけ無駄だ」
悪いことをすれば天罰が下る、必ずしっぺ返しがくる……と言えないのがこの世の中で。35年生きてきて痛いくらいにもう身に沁みてる。だから、無視。自分は自分の人生を歩む。それが一番なんだ。
「自分をいじめるのだけはやめてくれ」
ゆっくりとウイスキーを奪い、テーブルに置く。
「代わりに……俺が全部通報してやる!」
スマホの画面、片っ端から通報ボタンを連打。
「任せとけぃ!」
俺にはこれしかできない。だから全力でやる。
「……ふっ、あはは」
星浦が笑い出した。挙げていた手を下ろし、鼻を覆って。小さく震えて。
「ねえ、雨見」
そして微笑んだまま、俺と目を合わせる。
「ん?」
「付き合ってよ」
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