第17話 35歳のジャケット
夜7時過ぎ。池袋駅の外れ、南池袋に位置するとある複合オフィスビル。歯科医院やコンビニが入っているが繁華街から遠く、3階以降はすべてオフィスなのもあってか人気はない。
玄関前の広場のベンチに、寂しげな人影がぽつんと座っていた。
「……星浦」
「わっ! びっくりした!」
背中越しに小さく声を掛けると、ビクつく星浦。振り返った顔に眼鏡はなく、マスクの上で鋭い目元を大きく開けていた。
しかし、どことなくやつれているようで。
「驚かせてごめん。でもパパラッチにはつけられてないから安心して!」
背後には細心の注意を払ってきたが、怪しい人物はなかった。自信はある。
「普通に前から来いよ。逆におかしな人で注目浴びるよ……」
……言われてみれば。
「ネットニュース見た?」
「……ああ、まあ」
「よく来たね」
呟きながら、星浦は白いパンプスを脱いで足の甲をさすった。今日は黒いブラウスに焦げ茶のパンツのスタイル。だが、デニムのジャケットと黒キャスケットは例の画像と同じ。
「……痛むのか?」
「ちょっとね……原宿から歩いてきたから」
「え、原宿から!? そんな歩きにくい靴で?」
なんで? となる前に。そうだ。来る途中にドラッグストアがあった。
「すぐ戻るから待ってて」
そこまで走って、急いで買うものだけ買ってすぐに引き返す。
「湿布買ってきた!」
隣に座り、レジ袋から差し出した。
「……どうも、ありがと」
ぽかんと口を開けていた星浦だったが、すぐにくすくすっと穏やかに笑った。
「あんたらしいね。使わせてもらいます」
言って受け取ったものの、顔を上へ。そこには無機質な天井があるばかり。
「普通さ『なんで? なんのために会うの?』って怪しむものだと思うんだけど」
「……呼ばれたから来た。それだけ。星浦は他人を利用するようなやつじゃないと思うから。なら、要件は会ってから聞けばいい」
「……やっぱいい人だよ、雨見は」
星浦はキャスケットを両手で掴むと、顔を隠すように俯いた。
「あれ、フェイクニュースなの」
「え! フェイクニュースってアメリカの大統領選にも使われた、あの!?」
「大げさな……。ただのガセ、ってか記者の勘違い」
言いながら、星浦はくるぶしソックスを脱ぐ。湿布のパックを開けた。
「今日は取材だけだったから、コンタクトで行ったんだ。で、帰りの電車で記事が出て……。スマホ見てたら自分の記事が出てくるんだもん。バカみたいでしょ」
わざとらしい、乾いた笑い。
「そしたら向かいの女子高生に『あの人、星浦って人じゃない?』って指差されて、パニクっちゃってさ。突発的に降りて。そこが原宿駅だったの。でも電車に乗るのが怖くなって、歩き始めたんだけど……気付いたら池袋まで来ちゃった」
プッと噴き出し、鼻を手の甲で押さえる星浦。
「今自分で言ってて思った。バカみたい。自意識過剰じゃんね」
湿布のシールを剥がそうとするが、その手はぎこちなく。すぐによれて、くっついて。
「……俺が貼るよ」
彼女の前で跪く。湿布のパックを手に取って。
「星浦、お疲れ様」
俺にはこれしかできないし、言えない。
「……じゃあ、お願い。足の裏に貼って」
新しい湿布を出し、素早く貼った。シールを貼ったり剥がしたり、こういう細かい作業は仕事で何度もやって慣れている。
「聞かないの? 事のあらましとか」
「気にはなる。けど、星浦の言葉を待つべきだと思うから」
「……そ」
すると突然、頭がかき回された。
「な、なに!?」
「別に、頭があったから」
ぐしゃぐしゃと、視界の前髪が踊る。
星浦は足をパンプスに戻すと、勢いよく立ち上がった。
「とりあえず、ずっとここにいてもあれだし、行こうか」
「いいけど、行くってどこへ」
「雨見の家。……今夜だけでいい、匿ってくれない?」
「……わかった」
誰かいるでもなし、断る理由はない。週1で掃除機かける習慣をつけといて良かった。
「星浦のマンション、パパラッチいるぜ」
「住所とか本当にどこから漏れるんだろ」
「……そうだ、俺のジャケット貸そうか? 気休めにしかならないかもだけど、とりあえずそのデニムジャケットは隠れる」
あっと気付く。こんな汗が染み込んでるかもしれないジャケット、嫌か。
「ごめ、やっぱ」
「いいね。貸して。家上がるまでだけ」
「え……ああ」
脱いで渡すと、星浦はなんの躊躇いもなく着た。微笑みながら。
「やっぱ男の人のジャケットっておっきいね」
「俺は小さい方だよ。平均身長にも満たない」
「でも、やっぱりうちにとっては、おっきいよ」
目尻を下げて、軽やかな声。顔の血色も少し良くなった気がする。
住宅地で店も少なく、夜道は暗い。池袋のイメージとはだいぶかけ離れている、街の片隅。その闇に向かって、俺は星浦とともに歩き出した。
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