第9話 35歳の独身同士
白いアレを出した。よりにもよって女性の家で。最低だ、俺って。
バリウムが混じった白い便、通称・バリウムうんこ。
下剤の効果か、どうしても我慢できなかった。
「すっきりした?」
「いや、ごめん星浦、この度は誠に……」
「マジトーンやめろや。戻って戻って」
手をヒラヒラと振る星浦に促され、座布団に戻る。入れ替わりで星浦は立ち上がり、キッチン奥の冷蔵庫へと向かった。
「バニラでいい? 遠慮はナシな。どうせ安いやつだから」
「バニラがいいです」
「よかった、はい」
銀のスプーンとともにバニラのカップアイスを渡される。定番のスーパーなカップ。星浦は抹茶の蓋を開けていた。
「大学のサークルの人たちは元気?」
「元気……だと思うよ」
「なんでそんな曖昧なの」
「実は、会ってないんだ」
星浦に理由を話しながら、意識が大学時代に飛んだ。
俺は中堅私立大学の芸術学部、その文芸学科にいた。小説家になるためだった。
所詮18歳程度の自分、全然本気ではなく、単に物語が好きで、単に特別でありたいだけだった。長野の片田舎を出て首都圏に行き、イチから生きてみたかったのもある。当然、彼女も欲しかった。それで漫研サークルに入った。そこに星浦もいた。
1年経って星浦は辞めた。本気で声優になるため、との理由で。
星浦は、その時から本気だったのだ。対して俺は、なんとなくサークルに残っていた。
そして漫研で会長になった。リーダーシップがあるからではなく、俺が潤滑油としてふさわしかったからだ。大学公認のサークルである以上実績が必要で、商店街の祭りで似顔絵イベントを開催したり、文化祭でのアニメ制作上映をしたりと、団体活動をきちんと行わなければならなかった。そのためには、全員の気持ちを目標に向けて揃える必要がある。サークルは会社と違って、給金なんか出ない。やる気と善意で成り立っている。うまく立ちいかせるには、誰かが不満のクッションとなるしかなかった。
その割を食う、言わば人身御供が俺だった。
実際、楽しかったこともあったし、若い内にしかできないこともやった。でも30代になって、やっぱり小説家の夢を捨てられなかった俺にとって、あの時間は何だったのか。もっとあの時間を有効に使えていれば、と思うこともある。視野が狭く、学生のサークル程度どうでもいいだろ、と突っ込みたくもなる。
でも今さら仕方がない。それに、ハッキリした物言いができない、怒りたい時に怒れない、他人軸で生きていた意志薄弱な俺にも、原因はあった。
「卒業してから20代後半あたりまでは交流があったんだけど……30に入ってからはもう自分から距離を置いたんだ。今はマイングループにいるだけで、俺からは発言してない。いつまで経っても大学の空気感なんだよ。俺のこと――」
雑に扱っても大丈夫だと思ってる、と言いかけて、星浦に手をかざされた。
「いい。空気でわかる。もういいから」
目が合った。
「ごめん。そんなつもりじゃなかった」
謝罪が伝わってくる。声で、目で。
「……うち、大学の時の友達がいなくてさ。声優になるためにしゃかりきで、人付き合い疎かにしてたんだ。養成所もみんなライバルだと思ってたから、距離置いてたし。高校時代の友達はみんな子どもいるしね……。だから、同級生の微笑ましい話聞けたらって思っただけ。ほら、うちら再会してから半年しか経ってないし、そういう事情まだ話したことなかったじゃん。知らなかったの、ごめん」
星浦は「でも」と、一つ置いた。
「似た者同士、仲良くやろうよ」
あきらめを含んだ、自嘲を込めた笑み。俺も何度もやってきたからわかる。
その笑みは、後悔ではなく吹っ切るためにあると思う。
「……あらためてよろしく」
「こちらこそ」
軽く頭を下げると、俺は声を一段高くした。
「でも、大学時代すら13年も前なんだよな。遠い昔だ」
「まったくね」
「星浦は資産運用とか考えてる?」
「……うーん、国債は買ってみたけど。日本のね」
「国債!? 利率低くない?」
「だって、銘柄とか言われてもわかんなくて。国債はちょっとだけど買えば必ずプラスで返ってくるし」
「そこはね、国債の強みではあるよな」
「どうしたの急に……なんか胡散臭いもの勧めようとしてないよね?」
「いや、違う! 投資詐欺とかじゃないから! 単に、終活……終わりの活動ね、始めようかと思って」
「終活ぅ?」
星浦は眉をひそめた。
「婚活飛ばして、いきなり?」
「まあ、実は……」
隠し立てすることもない。俺は、昨夜の孤独死発見前の婚活事情について語った。
すると星浦は「はぁ~」と呆れた声を出して。
「それは、ご愁傷様だったね……同じ女性として、その言い種はひどいと思うよ」
「でも俺なりに分析したんだよ。あれは人柄の問題じゃなくて価値観のズレなんじゃないかと。合コン形式の場合、まず相性が合うか、仲良くできるかが一番だと相手方は考えてたんじゃないかな。名前なんて後で親身になればいくらでも分かるでしょ、それより気が合うかを確かめたい、と。俺は自分を知ってもらうおうと氏名をきっちり書いたけど、その価値観なら最初からお見合い形式のパーティーを選べばいいという話で……」
気付けばぽかんと口を開けている星浦。
「……えぇ、なんで今、うちが梯子を外されてるの?」
「……ごめん」
そうだ。せっかく味方してくれていたのに。
「いずれにせよ、いいんだ別に。もう35だし」
「男は35からでも余裕でしょ。女は正直もう35から結構ハードモードだけど」
「女性だって35歳が終わりってこともないでしょう。星浦なら全然いけるよ」
「え? 口説いてんの?」
「あ、いや……俺がいけるじゃなくて、第三者から見て……」
「うちは、いいけど。あんたなら」
目が合う。頬杖を突いてごく自然に、何の力みのないような笑みで、俺を見ていた。
胸が、きゅっと苦しくなる。
「……星浦のこと、尊敬しているし、ハッキリ言って結構異性としても魅力的で――だけど、恋愛とは違くて」
ふと、星浦はくすくすっと笑みをこぼした。
「ちょっとからかったんだよ。こんな35の可愛げのないオバサン、嫌でしょ」
かすかに笑いながら、星浦はアイスの最後のひとかけらを口に含んだ。
「……星浦こそ、結婚とか考えたことあるの?」
「ないと言えば嘘になる。声優業界だって若い男女がいて、まぁ……色々あったよ。けど、ずっと声優として食べてくために必死で……今まで恋愛なんかしてこなかったし、今さらできないよ。する暇もない。でもね、後悔してるわけじゃないから」
軽い口調とは裏腹に、顔つきは真剣だった。戦士の顔つき、とでも言うような。
なら、もう俺から言うことは何もない。善意でもありがた迷惑になるだけだ。
「職場はどうなの? 色んな意味でさ」
「今日、新人が来たよ。25歳の女性の人で教育係になった。……けど、やっぱり難しい」
「へぇ、かわいいの?」
「確かに、今風のアイドルって感じがする。だから、ちょっと社内もざわついたみたい。今まで俺が最年少だったくらいの、いい年したおじさんばっかりだけどね」
「いいね、オフィスラブじゃん?」
「あのねぇ、職場恋愛とか職場結婚とか、平成の遺物だよ。今、令和だぜ? ないない。第一10コも離れてるのに」
「ふーん、勉強になった。やっぱ個人事業主だとそこら辺の空気感分からなくてさ」
35歳独身同士、密室、2時間半。何か起きるはずもなく……。
「本日はごちそうになりまして、本当にありがとう」
「どういたしまして」
互いに頭を下げ合って、22時前にお開きとなった。
「お礼に何か考えとくよ」
「いいよ、。テレビと掃除機でチャラで」
「いや、そうはいかないよ」
「……じゃあ、うちがまたなんか困ったことがあったら、助けてもらう権利ってことで」
「わかりました」
俺が鞄に手をかけると、星浦もバッグに手を伸ばす。
「……ねぇ」
「なに?」
「色々言ったけど……あんたの素直なところは、うちは好きだよ」
「……は、はい。どうもです」
もっとうまく返すべきところなのに。年甲斐もなく、うれしかった――35歳にもなって、なんで俺はこんな子どもなんだろう。
勝手にドキマギしていると、星浦はバッグから台本を出した。
スイッチが入ったのが空気でわかる。
「……お父さんもお兄ちゃんも、森に行ったまま帰って来なくて……」
突然のロリボイス。下手するとギャップで思わず噴き出してしまうところだが、プロはそんな感情すら起こさない。文脈はわからずとも、説得力がもう声に含まれている。
夢を叶えて、人生をかけている。
ハッキリ言ってしまうと、星浦に対して性欲はある。星浦は確かにアイドルって感じではないが、やっぱり美人だと思う。初めての相手がもし星浦だったら、どんなにいいか。
でもそんな俺は、彼女の人生においてちょっかいを出すべきではない。
声優の星浦がかっこいいと思うから。
だから、黙って去ることにする。
「あと1個だけ」
「……なに?」
「小説は書いてないの? 更新してないじゃん」
「……ちょっと、人が辞めて忙しかったから、時間とれなくて」
嘘ではない。けれど、純度100%でもなかった。
「売れたら声当てさせてくれる約束でしょ」
再会した時に交わした約束。その場限りの話だと思っていた。なんてことのない雑談の一部。
「……そう、だったな」
曖昧な返しに自分ながら呆れる。
よくある話。俺は一次落ちが続いたため、やる気を失くしてしまった。それだけだった。
プロとして人生をかけている声優と、小説家の夢を捨てきれなかったサラリーマン。ひょんなことから再会した二人は、紆余曲折を経て夢を掴んでハッピーエンド。大人の青春物語。それは素晴らしい。
けれどそんなものは、やっぱりフィクションでしかなくて。幼い夢で。
「――ごめん。今はちょっと、考えられない」
「会社員だもんね。毎日決まった時間に出勤して、煽りじゃなく本当に立派だよ。疲れちゃうよね。ごめん」
星浦の声は軽かった。それでも俺の体の奥底に響く。
きっとこのまま有耶無耶になっても、星浦も俺も己の人生を歩む。35年生きていれば、それくらいのことはわかる。
「……今日はこんなとこで」
「こんなとこで」
お決まりのあいさつをして、俺は星浦のマンションを後にした。
歩くこと数メートル。谷山荘に着く。
隣部屋に清掃が入ったらしく、飛び交うハエが少しは減っていた。しかし、羽音がうるさいのに変わりはない。おまけに死臭はまだ鼻を突いてくる。
「……なんだろ?」
ふと目に付いた。隣部屋の玄関脇に光る、金属らしきもの。近づいてみると、4Lの焼酎のペットボトルが3本置かれていた。それぞれ口を切って、1円玉・5円玉・10円玉が分けて貯められていた。ペットボトルいっぱいに。
金銭だから遺族が引き取りに来るのを待っているのか。大家さんが事情聴取されているのを聞いたところでは、隣人は家賃を滞納していたらしい。だから、もう大家さんのものになっているのか。わかることは、少なくとも餓死ではないこと。この量の硬貨があれば、とりあえず最低限の食べ物は手に入っただろうから。
なら突然死だったのか。隣人は死の間際、何を考えたのだろうか。何を見たのだろうか。後悔する暇があったのか、なかったのか。
そもそも、俺が気付いてあげられれば助かったのではないだろうか。
「…………」
考えても詮無いことだ。叫び声も人が倒れるような音も聞いた覚えがない。ならば動きようがない。それに、自己弁護のつもりはないけれど、隣人と交流を持とうとしなかったのはお互い様だ。
俺には俺の人生がある。『独りで誰にも迷惑かけずに死ぬ』という人生が。
それから色々やった。
婚活サイトを退会した。「恋人ができたから」の選択肢の虚しさよ。
教習所に通っていた時から車の運転が苦手で、田舎に帰るつもりはないと親に話した。
ならば、実家の処分と墓石はどうするか方針を立てた。
首都圏で死ぬまで暮らせるのか、ロードマップを考えてみた。
こうして1か月が過ぎたころ。
「雨見さん、ちょっといいですか……」
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