第8話 35歳からのオスとメス

 手に持ったオスの先端を、ゆっくりとメスの部分に差し込む。

 うまく入った。

 これで新しいテレビとハードディスクレコーダーがつながった。

 そう、HDMIケーブルの話である。


 ……なぜ星浦宅でこんなことをしているのか、巻き戻すこと数分前。


「――やれそうって……ど、どうしたんだよ……」

「うん、新しいテレビが昨日届いたんだけど、意外と重くて。だからセッティング手伝ってくれない?」

「……え? そういうこと?」

「そういうこと以外に何かあるわけ? ……あ」


 街灯の下でもハッキリ分かった。星浦の顔が一瞬にして朱に染まる。


「ちょ、うちがビッチみたいじゃん!」

「だ、だって……す、すみません! ごめんなさい! 帰ります!」


 35歳にもなってなにを勘違いしてるんだ。俺と星浦の仲で突然セックスに誘うワケないだろ! しかし、言い訳は見苦しい。ここは謝罪して帰るしかない。

 身体ごと翻したすと、手首を掴まれる。


「いいから別に! うちの言葉選びがよくなかった。手伝ってほしいし、代わりに夕飯ご馳走するから」


 振り向くと、頬を掻く星浦の姿。


「じゃ、じゃあ……やるよ」


 断る理由はなかった。困り事があるなら手伝う、手伝う代わりに夕飯をごちそうになる。これぞ等価交換。

 独りで誰にも迷惑かけずに死ぬ――生涯独身であることと社会から孤立することはイコールじゃない。隣のおじさんは孤立したからタタリ神状態になってしまった。かといって無理にストレスのかかる人付き合いをするのは本末転倒だ。今の内から適度な交友関係を維持する練習はしておくべきだ。


 さて、テレビとレコーダーをつないだら。


「星浦、ビデオデッキどうする?」


 左手側、背を向けたままエプロンをしている星浦。その向こうは廊下と玄関を挟んでベッドルームとなっているらしい。


「ちょっと待って、今すっぴんだけどいいよね」

「……俺は気にしないよ! むしろ見たいくらい」

「……その返答も釈然としないけど、いいや」


 ヘアバンドで前髪を上げ、体を翻した。

 メイクがない分地味になり、少し日本人形感が増しているが、涼しげな美人であることには変わりない。声優も芸能人、努力しているのだろう。


「一応つないどいて。うちが声優なりたての頃は業界でギリVHS使ってたんだよね。まぁ、正直もう出番ないんだけど」

「りょーかいです」


 ディスクメディアが主流の時代も終わり、今やサブスク配信の時代だ。だが、何らかの事情で絶版となり、VHSでしか見られない作品もある。素人考えだが、そのビデオ化だけの作品が復活して新しく吹き替えが行われるとしたら。まだ棄てるには惜しいか。

 赤白黄のRCAケーブルでビデオデッキをつなぎ、各種ゲーム機のセッティングも完了。段ボールなどをまとめ、テレビ台を元の位置に戻す。

 と、その前に。新築とはいえ、半年生活していたらホコリも溜まるというものだ。片隅にあった掃除機をついでにかける。


「星浦、申し訳ないんだけど、フロスピックある?」

「え、何に使うの?」

「掃除機のブラシ部分にホコリが溜まってて。フロスピックで掻き出すとよく取れるんだよ」

「へえ、よく知ってるね。でもいいよそこまでしなくても」

「いやなんか中途半端だから」

「……玄関脇の洗面所にあるよ」


 フロスピックを借り、先端の針部分でブラシを梳く。絡まっていたくずをまとめて吸った。

 クローゼットの隣にテレビ台を戻し、試しに電源を点けてみる。40型の新品テレビの鮮やかな迫力。俺の19型とは大違いだ。


「さんきゅ。もうちょっと煮込めば角煮カレーできるから……ていうか角煮もカレーも食べられる、よね?」

「角煮カレーって響きだけでお腹すくよ」

「安心した。ちょっと夕飯前のルーティンこなしていい?」

「気ぃ遣わなくていいよ」


 じゃあ遠慮なく、と星浦はリビングに回り込んでくると、真ん中のテーブル前に立って姿勢を正した。


「拙者、親方と申すは、お立会いの中にご存じのお方もござりましょうが……」


 おお、と声が漏れそうになった。

 外郎売り。滑舌と発声を鍛える、定番の口上。声優の生の外郎売りが間近で見られるとは! 普段の声を深くしたイケボは耳を通して心臓をつかむ。


「……これ朝晩やらないと落ち着かないんだよね」


 俺はいつしか正座で聞いていた。はにかみながらキッチンへと戻っていく星浦を見送る。

 世の声優すべてが毎日外郎売りを唱えているかは知らない。しかし、毎日何かしらで鍛えているはずだ。その表に見せない地味な積み重ねがあるからこそ、声優でいられるのだろう。

 やっぱり、しがないサラリーマンの俺とは違う。


「はい、できました、角煮カレー。レシピ通りだと作りすぎになるところだったから良かった。あ、お酒はないけど、どうする?」

「俺は大丈夫、明日も仕事だし」

「うちも明日仕事だし、やめとくわ」


 双方麦茶で、テーブルを挟んで座った。

 星浦はスマホでカレーを1枚撮った。後でSNSに上げるという。こういうのも今の時代には必要だ。


「じゃ、誕生日おめでとう」


 差し出されたグラス。微笑を浮かべた顔に、そもそも誕生日で呼ばれたことを思い出す。


「あ、ありがとう」

「乾杯」

「乾杯」


 遅れて掲げた俺のグラスを、星浦が迎えに来た。


「いやーやっと追いついたかね、雨見君。35歳に」

「たった4カ月で何をマウント取ってんだよ……。でも、こうして誕生日に誘ってくれて、本当にありが」

「そういうのいい、いいから食べな。うちも食べるから」


 真面目に正座をしようとしたが止められた。俺もお言葉に甘えるとしよう。


「――おいしい。すごいな。肉ほろほろじゃん」

 甘辛のタレにカレーが合わさってもくどくなく、むしろ旨味が倍増している。

 すると星浦はふふん、と得意げな顔で。


「そ、よかったわ。つっても家電の力だけどね。製作会社の忘年会のビンゴで当たったやつなんだ。ほこり被ってるのももったいないしって使い始めたの。運も実力の内ってことで」


 言い終わると、星浦はスプーンを置いた。俺を見て、頬杖を突く。


「ま、でも安心した。今日ちゃんとご飯食べられるみたいで」


 思わず手が止まった。

 そうか、そういうことだったのか。


「星浦、心配してくれたんだな! ありがとう。でも俺は平気だから!」


 ありのまま、素直に告げる。それなのに、俺と来たら一瞬とはいえ勝手にセックスと勘違いして。失礼にもほどがある。

 すると、星浦は頭痛を抑えるように額に手をやった。


「……そうだよ! 心配だったの! 隣の部屋の死体なんか発見したら、飯も食えなくなるかと思ってさ!」


 ハァ、と一息ついて。


「35歳とは思えない素直さだよね、あんたって人は。ひねくれてるよりいいけど」

「誉め言葉と受け取っておきます」

「よろしい」


 しばらくふたりでカレーに舌鼓を打ち。


「ごちそうさまでした」

「お粗末様でした。あと、これ」


 手を合わせると、見計らったかのように立ち上がる星浦。俺の背後の壁に置かれた本棚に手を伸ばすと、何かを手渡してきた。


「一応、誕生日プレゼント。あんたサラブレやってるって言ってたもんね」

「え、あ、ありがとう」


 さも当然のように渡され、口ごもってしまった。見れば『サラブレッドガールズ』のクリアファイルと映画のムビチケ。


「どれも役得でタダでもらったから、気ぃ遣わなくていいよ」


 クリアファイルには、星浦の演じる競走馬の擬人化美少女キャラが描かれている。ムビチケの方は……

「『誰もがその名を呼んだ、鉄神てつじんギーグ』……あ、さっき見たよ予告」

「お、ありがと。てか『鉄神ギーグ』もともと知ってたの?」

「70年代のロボットアニメでしょ? 俺も公式配信されてる1話しか見てないけど。♪ガンガガーガガガーン ガンガガガーガガガーン 誰か呼んだが 正義を呼ぶ声 今に倒すぞ ザウルス人間 全滅だ! ってヤツ」

「1話しか見てないくせによく歌えるね……」

「歌詞がすごいよね。敵とはいえ『全滅だ!』って容赦のなさっぷりが」

「昔のアニメって結構思いきった発言するからねえ。それで『鉄神ギーグ』って、日本よりイタリアで人気なんだって。で、そのギーグの要素を作中に盛り込んだ映画なんだ」


 公式サイトにアクセスして、あらすじは確認済み。要約すると、ローマの貧しいゴロツキが不法投棄された核物質に触れスーパーパワーを得る。その力でお隣の女性を暴漢から助けたところ、アニメ好きだった彼女に「〈鉄神ギーグ〉みたいなヒーローになるべきよ!」と諭され、男は彼女とともに正義の道を歩みはじめるが……というストーリー。


「つまり、多少なりともギーグの要素を理解した上で演じないといけないってことか。大変じゃない?」

「うん。見放題にないから、頑張って1話ずつ課金して46話全部見たよ」

「え、1話220円くらいするから……1万円近くかかるじゃん!」

「まあ、それくらいしないとね。イタリアの監督さんに申し訳ないし。持ち出しだから1万引いた額が正しいギャラになるのかな? はは、けちくさいか」


 軽やかに言いのける星浦。

 1万円。星浦の年収がいくらかは知らないが、決して安い金額ではないはずだ。それに、この映画はギーグの実写化というわけでもない。単にモチーフとして出てくるだけで、別に内容を知らなくてもできるのではないか。

 でもそれをよしとしないのが、星浦あゆみだ。


「まー、でも正直言っちゃうとね。いわゆる万人受けハリウッド映画じゃないから、上映館少ないんだ。全国で50もないんじゃないかな」

「そうだとしても、誰にでもできることじゃないよ。さすが実力派の星浦だな」


 星浦は苦笑して手を振った。もういいから、とでも言うように。


「うちみたいな若くもない地味顔声優は、こういうところで食ってくのよ。『実力派』なんて言われるけど、それは単に華がないってこと。もうアラフォーだし、今さらいいけどね」


 あゆみの視線を追うが、そこにはカーテンに覆われた窓しかなかった。


「今の子は本当にすごいよ。最近の声優はタレント化しすぎって言われてるけど、その分10代の内から揉まれてきててセンスがある。その上当たり前に可愛いし、うちが若い頃とはやっぱ違う……ってなんか、ごめん。うちのことはもういいよ」


 言いながら星浦は苦笑を微笑に変えた。


「俺、必ず観に行くよ! なんなら公開日にでも!」


 俺にできること。それは言葉よりも何よりも行動だ。


「圧強っ! ……でも、ま、ありがと」


 片手で髪を梳く星浦。ニッと小さく笑う35歳の女性は、正直言って可愛かった。

 すると突然、俺に湧き上がってくるもの。欲望、生理現象。


「星浦……ごめん」

「……ん、なに?」


 抑え切れない、耐え切れない衝動。


「俺、もう我慢できない」

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