第7話 35歳の声優からのお誘い
電車に乗っていた。
事件の後、痛みが和らいで体勢を立て直し、謝り倒した。
「全然大丈夫です! 不可抗力ですから! 気にしないでください!」
犬井さんは赤くした顔の前で、両手をぶんぶんと振った。
「それより! 明日からもよろしくお願いしますね」
その手を下ろすと、はにかんだ顔でお辞儀して、退勤していった。
あんないい人に、俺はなんということをしてしまったのか。
会議から戻ってきた宇野さんに懲罰覚悟で報告すると、爆笑された挙句「まあ、本人が言うなら問題ないんじゃないの? ムリに掘り返しても気持ち悪いし、わたしもそれとなくフォローしとくよ」との返事。
しかして、35歳の取るべき行動はどれか。徹底して一定の距離を置くか、気にせず何事もなかったように接するか。
……いや、極端に振り切ることはない。彼女に気を遣わせてしまう。何事もなかったように振る舞う。しかし起きた事実は忘れずに、セクハラには注意する。35歳ならそれくらいできなければ。
俺が今できることは、白くてヒラヒラでフワフワだった布の記憶を1秒でも早く消すことだ。
よし、別のことに集中しよう。スマホの電子書籍アプリを立ち上げ、読みかけのライトノベルを開く。
――暗闇に浮かぶ光。それは純白のパンツ――
やめよう。お色気シーンに突入してしまった。
ユーチューブにしよう。アプリを開くと俺の検索履歴を元に並ぶ動画群。主に映画の予告だ。
ふと目に留まる、『日本のアニメから誕生したイタリアヒーロー映画!』と書かれたサムネイル。アニメの実写化とは違うようだ。何でもいい、とにかく気を紛らわせたい。
『みんなを救って〈ギーグ〉!』
タップすると――星浦の声がした。
かわいいとは違う、低めで落ち着きのある包容力を帯びた声。唯一無二、間違いなく星浦のもの。概要欄の吹き替え版キャストにもしっかりと〈アリシア 星浦あゆみ〉と書かれていた。
相変わらず、いい声してるよな――と、心の中で呟く。
そういえば今週はまだ星浦のネットラジオを聞いていなかった。
『こんにちは、星浦あゆみです。秋の訪れを感じ……ないね! まだ暑いね十分!』
少しおじさんくさい、砕けた笑い声。
『星浦あゆみの、星ウラジオ!』
星浦の声は、今のざわめいた心を預けるのに十分だった。
◆ ◆ ◆
35歳から、人生の差が露骨に現れる。
かたや洋画のヒロインの吹替役に選ばれた声優、かたや体を痛めて後輩を困らせる中小企業平社員。大学の同級生でも、こんなにも違う。
しかしそれは残酷ではない。残酷と捉えれば、それは星浦を含めて誰かの努力にケチを付けることになるだろうから。20代を正しく努力すればなるべくしてなる、当然の結果だと思う。夢を叶えた人は夢への努力をしていたし、結婚や家庭を持った人はそのための努力をしていた。もちろんさまざまな事情で努力の時間すらなかった人もいる。「努力」という言葉で片付ける便利さは危うい。
かくいう俺の20代は、働くこと自体に折り合いが付けられず、転職を繰り返していた。生活が安定しないから、恋人を作れるとも思えなかった。マイナスをゼロに埋める努力で終えた20代。多くの人が当たり前にできることが俺にはできなかった、それだけ。
しかし、漂着したアサマグラフィックは、幸いにも居心地がいい。楽しくはないが性に合っている。若葉先輩や宇野さんも優しくしてくれている。年収は低いが、上がって合わない仕事をするのなら今のままでいい。一人で生きるには困らない。
「しっかりしないと」
空はすっかり藍色。谷山荘を前にして、半分は切り替える意味で呟く。犬井さんにとってよき先輩でいることは、俺自身の居場所を守るためでもあるのだ。彼女に何事もなかったように接するならば、俺一人の時間から何事もなかったように過ごすのだ。
「お疲れ!」
「わぁっ!」
後ろからの声に、ビクつく背中。朝に続いてもう3回目。
振り向くと、見慣れた顔の女性が立っていた。街灯と月明かりを味方にして。
星浦あゆみ。大学の同級生にして、声優。
茶髪のボブカットを覆う黒キャスケット。黒ぶち眼鏡の奥に切れ長の目元。白い玉が輝くイヤリング。青いブラウスとベージュのロングスカート。俺より少しだけ低い背。肩幅ががっちりしていて、安定感のあるスタイル。
一言で言えば、キツめだけど涼しげな美人。
「眼鏡ってことは、今日はアフレコ?」
「そ。2話だけ出るゲストキャラ」
声の仕事では眼鏡、写真や映像に出る仕事ではコンタクトに切り替える、それが流儀だという。俺は眼鏡の方がいいと思うけれど、そんなことは当然言わない。
「背中の疲れ具合ですぐわかった。雨見って」
ニカッと笑う星浦に、俺は途端に不安に襲われた。
「やっぱり心配だよ。こんな堂々と俺と会って大丈夫なの? 今や声優だって立派なスクープなんだし」
声優が異性と一緒にいただけで撮られ、即ネットニュースに流される時代。というか、出汁専門店で買い物しただけで撮られた声優もいた。何があってもおかしくない。俺なんかのために、星浦の名が間違ったベクトルで広まって欲しくない。不要な面倒事で煩わせたくない。
「……あのねぇ」
しかし、星浦は目を閉じてため息を吐くと。
「文秋に撮られる声優じゃないって何度も言ってるでしょ。こんな地味でアイドルできない顔の声優が。しかもアラフォーの。あ、ごめんって謝るのはなしね。暗に肯定されてもちょっとムカつくから」
「アイドルできなくても十分美人だと思うよ、俺は」
「……そう来るか……いただきました」
フッと笑うと、星浦から「例のブツある?」との問い。
「どうぞ、ヤフルト1000でございます」
「ご苦労。受け取るがよい」
星浦はうやうやしく財布を取り出し、大仰に腕を回して千円札を渡してきた。
思わずプッと笑みが漏れる。それは星浦も同じだったらしい。
「はい、お釣り」
983円だから、17円。きっかり財布から出す。
「いやいらないよ。お釣りくらい、あんたにあげる」
「でもぴったりあるから」
「いいって。手数料と思って。いつもあんたに頼んでるんだし」
俺の手は強めに押し戻された。これ以上は逆に失礼か。
「で、さ」
星浦は不意に、目を宙にやった。少し沈黙の後。
「……雨見、今日誕生日でしょ? ご飯食べた?」
「……え、何で知ってんの!?」
「サークルに入ったばかりの時に書かされた、自己紹介冊子ってあったじゃん? それ見て」
「まだ持ってたの、あんなもん。しかも星浦1年で辞めたのに」
「……細かいことはいいんだよ。で、食べてるの? 食べてないの?」
「まだだけど」
「そ、じゃよかったら、うち来ない? すぐそこだしさ」
財布に戻していた小銭を危うく落とすところだった。
顔を上げると、微笑を浮かべた星浦の顔。背後の新築マンションを親指で差す。
「あんたならいいよ。やれそうだし」
「…………は?」
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