第6話 35歳からのラッキースケベ
「CMYKはご存知ですか?」
若葉先輩が去ってひと段落ついた頃、俺は休憩がてら尋ねた。
「すみません、不勉強で……」
「いえ全然、大丈夫ですから! 違う業界にいたなら当然ですし」
叱られた子犬のようにシュンとなる犬井さんを、あわててなだめる。
ただ、CMYKがわからないと印刷会社では致命的だ。オンデマンド出力と言えど色にこだわるケースがあるし、印刷用データだけこちらで作成して他社に回すこともある。
幸いにも前職のウェブ広告の経験でRGBは理解していた。なら話は早い。RGBは別名・光の三原色。レッド・グリーン・ブルーの光を混ぜた、加法混色という方法で色を作っている。対して、印刷物ではCMY=シアン・マゼンダ・イエローを用い、光を吸収して色を作る。光を加えるのではなく減らすので減法混色と言われる。理論上はCMYを均一に混ぜれば黒色になるのだが、実際に混ぜてもきれいな黒にはならない。その上、インクを大量に混ぜると乾きにくくなるため、黒専用のKインクを用いる。4つ合わせてCMYKだ。
「なるほど、勉強しておきます!」
「大丈夫です。仕事の中で自然と覚えますから」
それで、と前置きし、俺は発注書を引っ張り出した。
「先ほど若葉先輩が持ってきた案件なんですが、これはまずRGBの写真データから印刷用データを作らなくてはならず、早速CMYKが登場します。しかもこの会社は、いわゆるCBSCで」
「CBSC?」
「知識がなく勉強する気もないから想像力のないクライアント」
「あ、ただの愚痴だったんですね!」
CBSC――Chishikiganaku Benkyosurukimonaikara Sozoryokunonai Client
「たまにいるんです……。相手に任せっきりで何でも魔法のようにやってくれると思い込んでいるクライアントが……」
「それに関しては私ももう勉強済みです……」
ただ、別の分野になった時、こちらがCBSCになる可能性はある。CBSCを覗く時、CBSCもまたこちらを覗いている。気を付けたいところ。
それはさておき、ウケてよかった……。
強い視線を浴びせてきたり、距離感がバグったり、言動がチグハグだったり……しかもどこか〈既視感〉がある、不思議な彼女。
俺はモヤモヤを放置するのは嫌で、何事も明らかにして納得したがる方だ。わからないのは、このモヤモヤに俺の心がなびかないこと。
「――もう終業まで15分ですから、今日は終わりましょうか」
「いえ、まだ……」
「初日から無理することもないですから」
「……はい。明日もよろしくお願いします!」
美しい所作で頭を下げる。ひとつ確実なのは、犬井さんは真面目な良い若者だということ。35歳のおじさんには眩しいくらいに。
向かいの席に戻る彼女を見届けてから、気分転換に外に出ようと俺も席を立つ。入口に向かう途中、彼女のPCに目が止まった。
そういえば、犬井さんが来る前に掃除したまま、ワイヤーロック掛けたっけ?
「ちょっとごめんなさい」
右斜め後ろから声を掛けて、パソコン本体を確かめる。案の定、外したままにしていた。しかも迂闊にも、ワイヤーの先端部分が床に落ちている。
これは二人がかりでやらないと無理だ。
「犬井さん、ちょっとお願いがあるんですけど……」
「はい、何でしょうか!」と、きらきらした瞳で振り向く彼女。
「ウチの会社はプライバシーマークを取得していて、パソコンすべてにワイヤーロックを掛ける規定になっているんです。それで、犬井さんのパソコンにはそのロックが外れたままになってしまっているので付けたいんです。ただ、その先端部が床に落ちていまして、机の下に潜って配線孔を通す必要があって……」
「わかりました! じゃあ下から私が――」
「そっちは自分がやります! 犬井さんは配線孔の前でスタンバっててもらえますか?」
女の子にひざまづかせるのも悪い。汚すべきはどう考えても俺の膝の方だ。
「え、でも……」と立ち上がる彼女と半ば強引に位置を入れ替わり、しゃがみこむ。机の下で腕を伸ばし、散歩に行きたがる犬のような格好で先端部を手に取った。
「はい、じゃあ今から孔に通し……あっ!」
右腋から肩にかけて違和感。
嫌な予感がしたが、時すでに遅し。
「いっっっ!」
電流が走るような、激痛。
思わず叫ぶ。体が硬直し、痛いとすら最後まで言い切れない。
頭にわずかに残る冷静な部分が働き、分析する。
理屈は分かっている。
姿勢を急に変えたせいで硬くなっていた筋肉が伸び、神経に障っただけだ。たまに起こる。
だがこんな時に! おじさんか俺は!
「あ、いっっっ!」
おじさんだった!
「大丈夫ですか!? どこか痛めたんですか!?」
視界に降りてくる、犬井さんの顔。目を見開いて、声を震わせて。
「だ、大丈夫です……、数分じっとしてればおさま」
か細い声で答えようとして、固まる。
しゃがみこむ彼女の、タイトスカートの奥。
「み、見えてる! 見えてます!」
「えっ、何が」
「パ、パンツ!」
白くてヒラヒラが付いていてフワフワしている、何とも可愛らしい布。
「――!」
彼女の顔面が耳まで真っ赤に染まる。プルプルと震える唇。
無言でスカートの裾を抑え、両膝を着いた。
「な、内勤はビジネスカジュアルでいいからねええええええ!」
茜色の映えるオフィスに、俺の心からの叫びがこだました。
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