第10話 35歳からの急転
秋も深まり、ジャケットでの出勤が当たり前になった10月中旬。
犬井さんが叱られた子犬のような表情で現れた。
「すみません、ミスしてしまいました。ちょっと見てもらっていいですか」
「はい、なんでしょう」
言ったそばから俺の方が妙な声色になっていると気付く。宇野さんは今日はお休み。俺と犬井さんしかいないから、よりしっかりしなければとかしこまってしまった。落ち着こう、普段通りに過ごせばいい。
「出力の前に気付ければよかったんですが……」
青いシャツと白のロングスカートの彼女。詳しい経緯を聞くと、ミスでも何でもなかった。
報告書の出力案件で、数カ所だけ小口側にあるはずの章見出しがずれてノド側に寄っていたのだ。それに気付かず出力してしまい、最終チェックをしていた時に発覚した、とのこと。もらったデータを編集せずそのまま出力する案件だから、完全に先方側の作成ミスだ。仮に見逃して再依頼となっても、こちらに非はない。
ならば先輩として取るべき対応は。
「いやこんなの全然ミスじゃないですよ。むしろ、よく気付きましたね!」
彼女の経験値を溜めることに比べたら、紙やインクなど安いものだ。追加の印刷費はもらえず会社としての実入りは少なくなるかもしれない。それでも部署の先輩として、指摘される前に発見した犬井さんはよくやったと思う。
すると、犬井さんの顔がパッと華やいだ。
「いえ、雨見さんに、出力したものは必ずチェックするようにって教わったからですよ!」
「そんなことないです。優秀ですよ、犬井さんは。で、この場合は、PDFで文字拾えると思うので、直接編集しましょうか。その後、若葉先輩に事後報告に行きましょう」
「わかりました!」
出会った当初の謎のキツい空気はほぐれ、緊張感はほどよくある。自画自賛だが、俺と犬井さんはいい感じに先輩後輩になってきたのではないか。
それに犬井さんの成長には目を瞠るものがある。CMYKはもちろん、デザインソフトの操作も覚えが早く、総インキ量や解像度のことまでもう勉強している。
「では失敗した分はシュレッダーにかけますので、雨見さんも廃棄の紙ありましたらどうぞ」
かいがいしく雑務までやってくれる。
一時的にシュレッダーが満杯となり、屑箱を出した彼女は紙くずを手で押して容量を空ける。それを尻目に、さて、俺は本来の業務戻る……
「――ちょ、ブレーカー落として!」
慌てて駆け寄り、彼女の手元のブレーカーを落とした。
伝え忘れていた。必ずシュレッダーの屑箱を取り出す際にはブレーカーを落とす。怠ったばかりに髪の毛がカッターに巻き込まれた事例だってあるのだ。用心するに越したことはない、のだが……。
「――」
ギョッとした表情でこちらを見る犬井さん。上せたような赤い頬がすぐそばにあった。
――しまった! そりゃ緊急時とはいえ男にすごい勢いで迫られたらビビりもする。やらかした。普通に声で「ストップ!」って言えば済むことなのに。
「すみません! わ、わざとではなく」
ダバダバとぎこちない足取りになりつつ、あわてて距離を取った。
「い、いえ、こちらが不注意だったので。すみません、お気遣いありがとうございます!」
頬を赤らめたまま、ペコリと頭を下げる彼女。笑っているが、単にやりすごすための笑みかもしれない。
「あ、うん、気を付けて、くださいね……」
そう答えて、オフィスを出た。
……なんて気の利かない人間なんだろう。だいたい、大げさなんだ俺は。
「よし」
こういう時は、掃除するのが一番だ。俺は給湯室へと向かった。
「――私も手伝いますよ」
背中越しにかけられる声。入口に立つ犬井さん。
善意はありがたいが、できれば一人にさせて欲しい……。
「すぐ終わるので、大丈夫ですよ」
「でも」
「今回はシンクを磨くだけですし、二人もいりませんから」
「……そう、ですか」
腕まくりまでしていたのにちょっとかわいそうかな……とも思うが、実際そうなのだ。仕方がない。そう言い聞かせて、俺はシンクをピカピカに磨いた。
◆ ◆ ◆
犬井さんを先に帰し、5階フロアの戸締りをして会社を後にした。
「……疲れた」
小さく声で漏らす。特に今日は疲れた。変に緊張していたからだ。早く家に帰ろう。
10月中旬ともなると、18時前にはもうすっかり暗い。人々の帰宅ラッシュに紛れ、浜松町駅の北口へ向かう。
「……やめてください。いくら誘われても、行きませんから」
「いや、変な気持ちじゃないから! 本当に謝りたいだけなんだ」
突然聞こえてくる、張り詰めた男女の声。痴情のもつれか。ナンパの失敗か。
人の行き来が激しい駅前。多くの人がその脇を通り過ぎる。誰だって面倒ごとはごめんだ。俺も今日は店じまい。無視して帰る。
……つもりだったのだが、結局足を向けてしまった。もしもに備え警察に通報する人くらい、いた方がいいだろう。
「私に関わらないでください」
――あれ?
この少しハスキーな声は。
薄暗い高架下、その男女に焦点を合わせる。見覚えのある人影。
まさか、女性の方は。
改札口に吸い込まれる人流から抜け出して近づくと。
「犬井さん!」
間違いない。青いシャツに白いロングスカート。ストレートのミディアムヘア。清楚で透明感のある雰囲気。つい数分前まで同じ空間にいた彼女を、見間違えるはずがない。
「……雨見さん」
二人の隣まで来る。犬井さんにつられて、男も俺を向いた。
途端、俺の右腕が掴まれた。体温が伝わる。ぴたりと体をくっつけられる。
「今、この人と付き合ってるから!」
……はい?
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