第4話 35歳からの謎の白い液体

 白い粘り気のある液体を飲まされた。


 右へ左へと回される俺の体。拒否権はなく、抵抗すれば帰してもらえない。窓の向こう側から発せられる命令に、俺は従うしかなかった。

 さんざん弄ばれた証拠として、最後に強制写真撮影。体のすみずみまで映った、俺のあられもない写真。


「――これにて胃のX線検査は終わりです。下剤をお渡しするので、必ず飲んでください」


 つまりはバリウム検査だ。35歳になったため生活習慣病予防健診(B)に変わり、追加された検査項目の一つ。俺個人としては検便の提出も難儀だった。便は提出日まで冷暗所で保存しなければならず、一番適しているのは冷蔵庫なのだ。代案がなく仕方なく冷蔵庫にしまったが、やはり快くはない。検便容器を意味もなく二重のチャック袋で保管し、今朝持ってきた。実は若葉先輩と話してる時も、鞄には便が入っていたのだ。これから毎年うんこを冷蔵庫に保管し、鞄に忍ばせて運ばなければならないと考えると、少し面白い。けどその2倍げんなりもしてくる。


「はー、つら……」


 ひとり呟き、クリニックの廊下に備え付けられた洗面台で下剤を飲む。バリウム自体はほのかに甘いドロドロの牛乳といった趣で平気だったが、その前に胃を膨らませるために飲む発泡剤が辛かった。飲んだが最後、生理現象であるゲップを我慢しなくてはならない。そこでつまづいたまま、右向けやら左向けやら言われたり、ベッドにしがみついてさかさまにされたり。変に緊張してしまい命令と逆を向いてしまったり。

 身体面は身長167センチ、体重58キロ。標準体重内だが腹囲は77。大きな変化はなし。グリーンの検査服であちこち診断され、昼過ぎに解放された。

 クリニックから会社の間にある立ち食いソバで昼飯。


 調べて、考えてみた。


 67歳――これが、独身男性の死亡年齢の中央値。未婚男性が増え続けている現状を踏まえると、自分が老人になる頃にはもう少し伸びるだろう。だが、それでも俺は80までは生きられるかどうか。75歳ぐらいまでが限界ではなかろうか。そう仮定すると、残された時間は40年。

 ――余命40年。その40年の中で、人生の清算をして、死後できるだけ迷惑を掛けない対策をする。『独りで誰にも迷惑かけずに死ぬ』。40年あると考えれば、ゆっくりと終活できる。地道にコツコツは俺の得意とするところだ。


「こんにちはーヤフルトでーす」


 帰社すると、ヤフルトレディが来ていた。グッドタイミング。いつも通り乳酸菌飲料のヤフルト1000を3パック買っておく。俺の分、この時間は営業に出ている若葉先輩の分、そして星浦の分。マインで「ヤフルト1000買っといたから」と打っておき、給湯室の冷蔵庫にIN。ヤフルト1000は一時期ブームとなり出荷量が制限され、未だにスーパーでは品薄状態でヤフルトレディから購入するのが確実なのだ。

 今までは腹の弱さゆえに買っていた商品だったが、今回からは別の動機が加わる。余命40年だからこそ、健康には気を付ける。健康寿命の長い方が終活には都合がいい。


「ただいま戻りましたー」


 オフィスに戻ると、犬井さんの姿はなかった。


「おかえりなさい。早速だが雨見くん、話があるけどいいかい?」

「……はい」


 出力部部長・宇野雅。彼女のデスクの傍らに立つ。ウェーブかかった髪とキリッとした吊り目、グレーのパンツスーツの似合う45歳。


「雨見くんに犬井さんの教育係をやってもらおうと思う」


 宇野さんは椅子を回して対面すると、俺を見上げて言った。

 ……なんとなく、名前を呼ばれた瞬間からそんな気はしていた。


「俺、教えるの下手ですよ! それにセクハラの基準も昔とは違います、無意識に地雷を踏むかもしれないし……同性の部長が適任かと」

「こんな時に限っていっちょ前に適任とか言うんじゃないよ」


 呆れた声色で肩をすくめる宇野さん。


「同性ならセクハラは大丈夫って思ってることこそ時代錯誤だろ。それはそれとして、セクハラを心配するくらいがちょうどいいから、お前さんに頼みたいんだよ。それに、わたしは役職業務もあるからずっと見てられないし」

「まぁ……それは」そこを言及されると弱い。出力部の人数はわずか3人。俺と犬井さん、宇野部長。部長が無理なら当然俺になる。

 宇野さんは姿勢を正し、俺の腕を軽く叩いた。


「お前さんならできるだろ。もう5年やってんだから、立派な戦力だ。それに、35だろ? そろそろ社会人の先輩としても頼られていい頃合いさ」

「いや、自分なんかが……」

「卑屈と謙遜は違うぞ。自分をあからさまに過小評価するのは悪徳だ。何も1カ月で一人前にしろだとかは言ってない。最初は見学や手伝いレベルでいいから」


 格言が出ると、もう宇野さんは引かない。ここで押し付け合って一番困るのは犬井さんだ。


「……わかりました、やります」


 ドアが開く音がして、犬井さんが戻ってきた。宇野さんが呼び、俺の隣に立たせる。


「雨見くんが犬井さんの教育係になります。最初はお互いに不慣れかもしれないけど、ま、これも経験だと思ってやってみてください」

「犬井さん、よろしくお願いします」

「は、はい! うれしいです、頑張ります!」


 きれいな髪を勢いよく揺らしてお辞儀。「うれしい」が何か変な気がするが、とにかく俺なんかにかしこまらないで欲しい。

 あぁ、人生は大変だ……。

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