第3話 25歳の新人、35歳のモヤモヤ

 光を反射するホコリさえ美しく見える、深く黒い髪。まさしく烏の濡れ羽色の、まっすぐなミディアムヘア。鋭い目元に澄んだ瞳。しかし涙袋の存在感が強く、印象は柔らかい。背は若葉先輩よりも少し高く、スマートにタイトスカートのスーツを着こなしている。

 清楚で凛とした、透明感のある美女――その一言に尽きる。


「……」


 目と目が合った。


 ――あれ、この人、どこかで見たような……。


 そんな心の声に、俺はしばし棒立ちになってしまった。


「あっ……その……」


 解かれる視線。彼女は俯いて、バッグの取っ手を何度も握りかえる。

 もしかして、不快にさせた? これセクハラになる? セクハラかはともかく、今は相手を見るだけでも【見るハラ】と言われる時代だ!

 落ち着け、そもそもなぜ見知らぬ女性がなぜここにいる?

 新人さんだ。若葉先輩の言っていた新人さん。名前はたしか……


「もしかして、犬井さん?」

「は、はい、今日からこちらの出力部でお世話になります、犬井花琳かりんと申します!」


 キビキビしたお辞儀。不快だったのではなく単に緊張していただけかもしれない。誰だって初日は緊張して当然だ。

 とにもかくにも、俺は先輩としてきちんとあいさつしよう。


「同じ出力部の雨見和明と申します。よろしくお願いします」


 体ごと犬井さんに向けて、お辞儀で返した。


「雨見さん、雨見和明さん……」


 俯いたまま呟く犬井さん。たしかに、俺はあまのではなくあまみなので少し覚えづらい。


「よろしくお願いします」


 ゆっくりと顔を上げた彼女の、気迫のこもった瞳。ピリピリした視線が肌に刺さる。

 ……なぜ? やっぱり【見るハラ】だったのか?


「と、とりあえず、中に入りましょうか」


 突っ立っていても仕方がない。彼女の前に出て、首にかけたカードキーをリーダーにかざす。入室してすぐ、逆コの字に並ぶ5台のデスク。窓際の宇野部長の右手側が彼女の席。手早く椅子を引っ張り出して、彼女に向けた。


「どうぞ、座ってください」


 彼女が座ると同時に、向かい側の自分のデスクへと移動。PCの電源を入れた。


「とりあえず始業までゆっくりしてください」


 犬井さんにできることはないし、細かいことは宇野部長が出社してからでいいだろう。

 若葉先輩から受け取った発注書の原稿をクラウドからダウンロード。冒頭の目次のページ表記が本文のノンブルと合致しているかをチェック――


「雨見さん」

「わぁっ!」


 またも背後からの声。振り向くと、当たり前ながら犬井さんが立っていた。さすがに驚きすぎて、犬井さんも「す、すみません……」と引いていた。


「な、なにか」

「できれば雨見さんの仕事を見学させてもらいたいのですが。あの、見るだけでも……」

「えっ、なぜ」と声が漏れそうになり、あわてて抑える。殊勝な心掛けを無下に断ることはあるまい。手持ち無沙汰が嫌なのもあるだろう。

「……そういうことなら、どうぞ」

「ありがとうございます!」


 ぱっと顔が優しくなる。俺の左隣、DTP作業用パソコンの椅子に座ってもらうことにした。


「この仕事ではワードの原稿を軽く校正して、PDFに変換して出力用データを作ります。とりあえずこんなデータ作業をしてますよって感じで」

「はい」


 慣れた作業を、意識してゆっくり目にこなしていく。

 バニラ系の甘い香り。俺の室内用サンダルのすぐ隣に、彼女のパンプス。ちらりと横に目をやると、彼女の長いまつ毛。


 ……近い、近すぎる。


 Z世代は巷じゃやいのやいの言われているが、真面目な子は以前の世代よりずっと真面目。ただ、真面目なのはいいけど、この距離感バグは正直怖い……。


「……ひとつ聞いてもいいですか? 業務には直接関係ないことなんですけど……」

「ぜ、全然、構いませんよ」

「給湯室の掃除は当番でしてるんですか?」

「いえ、あれは……自主的に掃除しているだけです。カップ麺の汁とか飲み物捨てていくと、シンクが水垢やら油やらで汚れるんですよ。ビル単位で清掃会社が入っているんですけど、そこまでは掃除してくれなくて。でもキレイな方がいいし。あ、犬井さんはやらなくていいですよ。大した作業でもありませんから、自分ひとりで事足りるので」

「そうですか。私、求人票に書かれていない仕事はしませんから。突然言われても困りますので」――ということが言いたいのだろう。Z世代だし。俺が好きでやってることを他人に強要するつもりは毛頭ないから安心してほしい。


「いえ、私もお手伝いしますよ」

「えっ」

「雨見さん、真面目なんですね――やっぱり」


 ……やっぱり?

 視界の端の犬井さんは、ふわりとした笑みを浮かべていた。


  ――その顔を、俺はどこかで見た気がする。

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