第1話 35歳の誕生日

 結局あまり眠れなかった。


 自宅に戻ると、一緒にでかいハエが2匹も入ってきてバトルへと突入。調べてみるとニクバエなる種で、その名の通り動物の腐肉から発生する。性質を利用して遺体の死亡時刻の特定にも役立つ、とのこと。何とかニクバエにお引き取りしてもらった後、空腹は感じるものの進んで飯を食う気にもなれず、買い置きの冷食を強引に腹に収めた。シャワーを浴びて髭を剃り、布団に入る。が、妙に興奮して寝付けない。やっとうとうとしたところで朝を迎えた。

 することもなく、起き上がってスマホの電源を入れる。


〈お誕生日おめでとう!〉


 途端、目に入った1通のメール。アプリを開いて送り主を確かめると、「ヨコヤマドライビングスクール」の文字。大学の時に通っていた教習所だ。卒業して14年経つのにまだ送ってくるのか……なんて律儀な! 俺は配信停止の手続きをした。


 それ以外、メールもマインのメッセージも一切なし。


 もういいや、かなり早いが会社に行くか! ワイシャツとスラックスに着替え、ユニットバスの鏡で何の遊びのないヘタった髪を最低限整える。

 眉毛にかかった前髪を上げると、存在感を発揮する生え際のブツブツ。30代に入ってからできたこのブツブツはどうにも消えない。垂れ目垂れ眉で覇気がない顔面。「気弱な犬みたいな顔」との星浦評は本人からしても言い得て妙だ。

 さて、今日は昼前に健康診断がある。朝食を抜いて、忘れずに冷蔵庫からアレを取り出す。鞄を肩に掛けて池袋駅へと向かった。


   ◆ ◆ ◆


 今日から5階にあるオフィスまで階段で行く。亡くなったおじさんとすれ違った時、肥満体型ゆえに毎回俺が譲っていたことを思い出したからだ。肥満は万病の元。長生きに興味はないが、苦しんで死にたくはない。小さな運動でもやらないよりやった方がマシだ。


「ゲッ」


 2階に差し掛かったところで、思わず声が出た。ヴーンと音を立てて、ハエが窓に体当たりをしている。


「……ハァ」


 無視して登っていく、ことはできなかった。あのタタリ神状態を思い出すからもう見たくもない。だが、後に来る人も多少なり不快な気持ちになるだろう。窓を開けてやると、ハエは勢いよく出て行った。


「おー、さすがだね」


 優しく耳を撫でる、聞き慣れた声。振り向けば、若葉先輩が上がってくるところだった。

 冬野若葉――俺にこの会社アサマグラフィックに入社するきっかけをくれた先輩。そして、営業部で部署こそ違えど、現在進行形で今もお世話になっている先輩。


「おはよー」


 手を上げると、栗色のポニーテールが小さく揺れた。


「おはようございます」


 軽く頭を下げると、先輩は俺の前に来て目を細めた。


「相変わらず朝から生真面目だねぇ。えらい!」


 大きく円らな瞳と柔らかい口元。目を細めて笑う姿からはほんわかオーラが放たれ、それだけで肩がほぐれる心地。女性としても背は高くないが、スタイルがよく黒スーツが似合う。「トランジスターグラマー」なる言葉を知った時、先輩がまさにこれだと思ったものだ。


「先輩、階段派だったんですか?」


 一緒に登り始めながら聞く。先輩のパンプスに合わせ、ゆっくり目に。


「あー……少し前からね。運動しないとすぐに太っちゃうんだ。もう歳だからさ。甘い物も控えてるし」

「なるほど。やっぱり健康は継続が大事ですよね」

「和明くん、ここ『全然スタイル変わってないですよ』って励まして鼓舞するところだよ?」

「エッ、スマセッ」

「冗談冗談」


 くすくすと笑う先輩の後を、一歩引いて追いかけた。

 発注書があるとのことで、若葉先輩のデスクまでもらいに行くことにする。


「そうそう、昨日例の月刊報告書の納品に行ったらさ、和明くんのこと褒めてたよ! 危うく肩書き間違えて怒られるところだったって!」


 思わず苦笑いが出た。数日前の出力案件だ。何度も差し替えが発生した挙句、最終原稿で「ブローカー」を「ブロガー」と誤字していた。納品直前に俺が発見し、あわてて先方に連絡。原稿は先方に直してもらうルールだが許可をもらって俺が修正し、先輩が印刷費の上乗せを交渉、アドレナリンマシマシでイチから再出力した。


「今思い返しても肝が冷えます」


 そもそも、株式会社アサマグラフィックは従業員数20名の、いわゆる中小印刷会社。といっても、近年は書類の電子化事業の方が伸びているし、そもそも印刷会社と言えどオフセット印刷機はなく、オンデマンド出力の安価少部数で勝負している。

 場所は浜松町駅から徒歩10分。とあるオフィスビルの4階と5階を借りている。4階は若葉先輩のいる営業部と書類スキャンを担当する電子化部。5階は俺の所属する出力部と印刷機・製本作業用スペースとなっている。


「褒められるよりも再発防止に努めてほしいですよ、俺は……」


 まだ二人しかいないオフィスで呟く。先輩は「ま、しょうがないよ」と朗らかに言いながら椅子に座り、パンプスからルームシューズに履き替えた。


「和明くん」


 あらためて呼びかけられ、発注書に落としていた目を戻す。


「誕生日おめでと」

「……俺、今日誕生日です!」

「いや知ってるよ! だから渡してるんじゃないの」


 小さい紙袋を両手で渡された。

 まさか、去年流れで教えただけなのに、覚えてくれていたなんて……教習所以外から祝われるなんて!


「ありがとうございます!」


 早速手に取って、中身を見た。琥珀色のボトルに入ったボディソープ。


「俺臭いですか!?」


 思わず腋に向ける鼻。35歳にもなれば加齢臭も出るか……それに自分の体臭は自分ではわからないと巷では言われているし。


「違う違う! ごめんそういう意味じゃなくて! これ、にしむープロデュースのボディソープなんだ」

「ああ、そういうことですか」


 一気に得心がいった。

 にしむーこと、西邑悠。甘い顔立ちと紳士な物腰で話題の27歳の俳優。ゲームやアニメの舞台化作品に多数出演している、いわゆる2.5次元俳優だ。

 先輩のデスクにあらためて目を向ける。ノートパソコンと書類立てに置かれたクリアファイル、メモ帳。そしてデスクの外縁から半円状に並べられたにしむーのアクリルスタンド。舞台で演じたゲームキャラ姿のものから、パジャマやエプロン姿のプライベートショット風のものまで、ありとあらゆる西邑さんがいる。それらはすべて視線が先輩へ向くように細かく調整されていた。よく見ればパソコンの壁紙もにしむー、使っているクリアファイルもにしむー、メモ帳もにしむー。通称・冬野専用にしむーデスク。ちなみに会社にあるグッズは普段使い用で、保存用は自宅にあるとのこと。

 男の俺でも思う、イケメンは摂取し過ぎて困ることはない。


「あたしの一番の推しはにしむーだけど、会社での推しは君だから! 推しにはいい香りでいてもらいたいのさ。……ちょっと厚かましいかな?」

「とんでもないです! 使わせていただきます。いつも百均の石鹸しか使ってないんで」

「そう? 喜んでくれたならよかった。で、何歳になったんだっけ?」

「35です」

「そっか、もう35か! あたしの2コ下だもんね。ようこそ、アラフォーの世界へ!」


 サムズアップする先輩に思わず苦笑が漏れる。自虐ゆえの苦笑ではない。正直、先輩からそのエールは受け取りづらいのだ。

 いかんせん先輩は、アラフォーには全く見えない。化粧っ気は薄いのに顔にシミひとつない。タイトスカートから覗く膝小僧にはハリと潤いがある。髪もいつもキラキラ輝いている。一緒に取引先に伺えば「20代から見てどうですか」と聞かれる。そんな規格外な37歳にアラフォーのシンパシーを求められても……。

 ――と、いけない。35歳、正真正銘の大人。せっかくの厚意に卑屈で水を差すな。


「いやでも本当にありがとうございます。何しろ昨日はさんざんで……」

「なになに? 何かあったの?」と身を乗り出す先輩。先輩の前だと言いにくいこともなぜか言えてしまう。結局、婚活失敗から孤独死発見までの顛末を話してしまった。

「婚活してたの!? 言ってくれればよかったのに。案外、ご縁は近くにあるかもよ」


 先輩は言いながら、左手を胸に添えた。


「……あたし、和明くんならいいけど」


 上目遣いで俺を見る先輩。その薬指に指輪はない。


「……え?」

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