第37話 覚悟
日和はどんな気持ちで妊娠の記録を書いていたのだろうか? 何度も読み返して、必死で読み解こうとする。
妊娠の記録には不安、恐怖、葛藤。様々な負の感情が綴られている。だけど日和が現実の俺に向けていたのは、期待、感謝、希望といった光で満ち溢れた感情だけだった。
どうして俺は、日和に寄り添ってあげられなかったんだ。自分のことばかりで、日和の感情を蔑ろにしていた。
挙句の果てに、とんでもない勘違いまでさせていた。
『圭ちゃんの見据える未来に、私はいない。』
それは大きな間違いだと、声の限り叫んでやりたかった。
日和は俺にとって特別だ。日和がいたから俺の人生に彩があった。小説を書き始めたのも、小説家になりたいと思い始めたのも、夢を追いかけてこられたのも、日和が傍に居てくれたからだ。日和がいなければ何一つ叶わなかった。
俺の人生には日和が必要だった。この先だって、ずっとずっと必要だった。
それなのに、当の本人には全く伝わっていなかったなんて……。
思い返せば、俺にとって日和がどんな存在であったかを、言葉で伝えたことはなかった。タイムスリップしてからも、結局伝えられずにいた。
言葉にしなければ、気持ちは伝わらない。
恋愛小説では散々使ったフレーズなのに、自分自身はその言葉の本質的な意味を理解していなかった。
日和の勘違いをどんなに否定しても、もう届くことはない。二十五歳の日和も、十七歳の日和も、ここにはいないのだから。
母子手帳に雫が落ちる。日和の筆跡がじんわりと滲んだ。
俺は泣いた。獣のようなうめき声をあげながら泣きわめいた。
大声を上げながら泣きわめいても、胸の痛みはちっとも消えやしない。もうこのまま、心も身体もバラバラになってしまうのではないかと本気で思った。
ベッドの片隅で眠っていた朝陽が、驚いて目を開けた。日和とよく似た赤みがかった瞳が、じっとこちらを見つめる。目の前で起きている事象を必死に分析しているようだった。
俺の異変を察した看護師が病室に飛び込んできた。それでも取り繕う余裕なんてなかった。俺は人目も気にせず、ただひたすらに泣きわめいた。
俺の異変を知らせたからか、母さんが病室に戻っていた。
声を上げて泣き叫ぶ息子を見て、口を半開きにして固まっていたが、手元に置かれた母子手帳に気付いた途端、全てを悟ったように落ち着きを取り戻した。
「少し、泣かせてあげてください」
母さんが看護師に伝える。看護師は眉をひそめながらも、病室から去って行った。
母さんは何も言わずに、綺麗にアイロンがけされたハンカチを差し出した。俺は震える手を伸ばしながら、ハンカチを受け取った。
涙が引いて、ようやくまともに息ができるようになった頃、ベッドで仰向けに寝転ぶ朝陽に触れた。
正面で向き合うように抱きかかえると、朝陽の澄んだ瞳がじっとこちらを捉えていた。
こうやって赤ん坊の朝陽とじっくり向き合ったのは、初めてだった。いままでは泣かせるのが怖くて、まともに目を合わせられなかったから。
朝陽を観察していると、真ん丸とした目が半月状に形を変えた。左右の口角も、キュッと引き上がった。
朝陽は笑っていた。
初めてだった。朝陽の笑った顔を、俺は初めて見た。
無意識のうちに自分の頬も緩む。胸の内にあった絶望が、ゆっくりと浄化されていく感覚になった。
俺はそっと朝陽を抱きよせた。力を入れたら潰れてしまいそうなほどに脆い身体。この小さな生き物を扱うのは、やっぱり怖い。だけど今は、それ以上に愛おしく感じた。
「朝陽ちゃん、お父さんに抱っこされて笑ったね」
母さんは愛おしそうに朝陽を見つめていた。
朝陽の笑った顔を見て、自分がやるべきことにやっと気付いた。
日和はずっと小さな命を守ってきた。その想いを受け継ぐのは、俺だ。朝陽の命を守るのは、俺の役目だ。
一呼吸おいてから、俺は母さんに告げた。
「朝陽と一緒に暮らしたい」
少し前までの俺は、実家に朝陽を押し付けようとした。朝陽と二人きりで過ごす日々は、あまりに過酷だったからだ。朝陽とずっと一緒にいたら、自分が自分じゃなくなる気がした。
あの日々が再びやってくるのは、正直怖い。だけど、その恐怖から逃げたくないと思った。
俺の言葉を聞いた母さんは、目を丸くした。そして俺の覚悟を見極めるかのように、じっとこちらを見つめていた。
「それで、いいのね?」
真剣な眼差しで尋ねる母さん。俺はゆっくりと頷いた。
「大人になったね、圭一郎」
母さんは、俺の肩を軽く叩いた。初めて母さんに認められた気がした。
それから母さんは、朝陽をそっと抱き寄せた。
朝陽をあやすようにゆらゆらと揺れながら、目を細める母さん。その視線は、どこか懐かしさを感じさせた。
「今は大変だと思うけど、子育てってあっという間に終わってしまうのよ。全部終わってから振り返れば、宝物のような日々だったって懐かしく思うんだから」
それは母さんの経験談だろうか? 俺にとってはあまりに遠すぎる未来で想像ができなかった。
「だからね、朝陽と過ごす日々を大切にしてね。私達も全力でサポートするから」
母さんはガッツポーズをしながら微笑んだ。その姿がとても頼もしく感じた。
遠回りしてしまったけど、俺は朝陽と生きる道を選んだ。俺にとって日和は特別な存在だった。それと同じように、朝陽も特別な存在になりかけていた。
俺の未来には、朝陽が必要だ。ここで手放したら、きっと後悔する。
朝陽と一緒に暮らして、成長を見守っていく。その覚悟がようやく固まった。
まずはきちんと就職をしよう。育児のことも勉強しよう。料理や掃除だってできるようにならないとダメだ。
しんどくなったら、実家に逃げ込むこともあるかもしれない。両親やこずえ姉さんにも、迷惑をかけると思う。
弱音を吐くこともあるかもしれない。ダメな父親だと罵られることもあるかもしれない。だけど、最後まで逃げなければ俺の勝ちだ。
そうやって必死に生きていれば、いつか日和にも胸を張って会えるような気がした。その日がいつになるのかはわからないけど、せめて朝陽が大人になるまでは不貞腐れずに生きていくつもりだ。
なあ、これでいいんだよな、日和。
◇◇◇
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