第36話 母子手帳

 母さんから渡された母子手帳には、予防接種の記録や産前産後の過ごし方などが書かれていた。さらにページをめくると、手書きのページがあることに気が付いた。


 妊娠の記録と記されたページには、日和の筆跡でぎっしりと文字が詰め込まれている。日和の性格を表したような、几帳面で丁寧な文字だ。


 妊娠の記録は、三ヶ月目から始まっていた。俺は母子手帳に書かれた文字を追う。



『妊娠三ヶ月

 数週間前から体調が悪くて病院に行ったら、まさかの妊娠だった。


 病院でエコーを取った時、豆粒のような赤ちゃんを見せてもらった。心拍が確認できて、私の中に命が宿っていることを知った。


 母子手帳にこういうことを書いていいのか分からないけど、嬉しいという気持ちよりも、どうしようって気持ちが先に浮かんだ。


 私も圭ちゃんも、胸を張って子どもを育てられるような立場ではない。


 私は病院に勤め始めて一年も経っていないし、圭ちゃんだってバイトをしながら小説家を目指している身。子どもを迎え入れる準備は、全く整っていなかった。


 浅はかだった。こうなることは少し考えれば分かることだったのに、心のどこかで自分は大丈夫だと慢心していた。大人として、失格だと思う。


 妊娠の事実は、まだ圭ちゃんには伝えていない。圭ちゃんは優しいから私を見捨てることはないと思うけど、心から喜んではもらえないような気がした。


 でも、このまま伝えないわけにはいかない。明日の夜、圭ちゃんにきちんと伝える。二人で話し合って、これから先のことを考える。』



『妊娠四ヶ月

 この一ヶ月で私の生活は劇的に変わった。一番大きな変化は、圭ちゃんと結婚したこと。


 妊娠を伝えた時、圭ちゃんは真っ先に結婚しようって言ってくれた。一番にその言葉を言ってくれたのは、本当に嬉しかった。やっぱり圭ちゃんは優しい。


 でもきっと、本当は戸惑っていたと思う。子どもが生まれたら、生活がガラッと変わるから。落ち着いて小説を書くこともできなくなるかもしれない。


 圭ちゃんの夢を誰よりも近くで応援していたのに、それを邪魔するような事態になって申し訳ない。


 せめてもの償いとして、できる限り圭ちゃんに負担をかけないように暮らしていこうと思う。


 だけどここだけの話、圭ちゃんと一緒に暮らせるようになったのは正直嬉しい。


 朝起きて最初に、圭ちゃんにおはようと言えることが、こんなに幸せだなんて思わなかった。こんな日々を与えてくれた赤ちゃんには、感謝しないとね。』



『妊娠五ヶ月

 ようやく安定期に突入。エコーで見る赤ちゃんの姿は、鼻や唇の形がはっきりわかって、健診のたびに人間らしくなっていった。人間の身体って本当に神秘的!


 安定期に入ってから、子どもが生まれた後の暮らしをリアルに考えるようになった。


 今の段階では、私のお給料と圭ちゃんのバイト代でなんとか暮らしてるけど、この子が産まれてからもその生活が続けられるのかは分からない。


 圭ちゃんが正社員で働いてくれたら安心だけど、無理強いするわけにはいかない。それは圭ちゃんが決めることだから。


 最近の圭ちゃんは、家にいる時間のほとんどは小説を書いている。新人賞の締め切りが近いらしい。


 今回の作品には、かなり思入れがあるみたい。私も読ませてもらったけど面白かった。この作品で小説家デビューできればいいのだけれど。


 私はやっぱり、圭ちゃんの小説が好き。初めて読ませてもらったときから、その気持ちは変わらない。だから私は、圭ちゃんの夢を応援したい。』



『妊娠六ヶ月

 前回の健診で、赤ちゃんの性別が女の子だと発覚した。


 性別にこだわりはなかったけど、同性の子どもができるというのはやっぱり嬉しい。一緒にお買い物して、お洒落して、お料理して……夢が広がる!


 圭ちゃんに赤ちゃんの性別を伝えたら、翌日にくまのぬいぐるみを買ってきてくれた。赤ちゃんへのプレゼントなんだって。


 圭ちゃんなりに赤ちゃんを迎える準備をしてくれて嬉しい。今週末は、二人でベビー服を買いに行く約束をしている。楽しみだな。』



『妊娠七ヶ月

 最近は胎動が活発になってきた。お腹の中でモニョモニョ動いて不思議な感覚。一体何をやっているのかな?


 ときどき圭ちゃんにもお腹を触ってもらうけど、圭ちゃんが触っている時は全然動かない。なんでだろうね?


 最近はネットの出産体験談を読むことが増えた。なかには壮絶なお産の体験談もあって、恐怖心を掻き立てられることもある。


 出産は命がけらしい。時には予想外の出来事だって起こる。もしも私や赤ちゃんに何かあったらって考えると、怖くて涙が出てくる。


 ついこの間も、布団の中で泣いてしまった。そしたら圭ちゃんが気付いてくれて、夜中だったけどホットココアを入れてくれた。


 さりげなく気遣ってくれる圭ちゃんが大好き。圭ちゃんがそばにいてくれれば、私も赤ちゃんもきっと大丈夫。』



『妊娠八ヶ月

 お腹周りがぐんと大きくなって、外出中も妊婦だと気付かれることが多くなった。


 この前圭ちゃんとカフェに行ったときに、店員さんがひざ掛けを貸してくれた。他人に優しくされると、あったかい気持ちになるね。


 八ヶ月に入ってベビー用品も少しずつ揃え始めた。ベビーベッドにベビーバス、抱っこ紐、チャイルドシート。


 選んでいるときは楽しいけど、ベビー用品って意外と高いから家計的には大打撃だったりする。お金の心配はいつになっても尽きないな。


 子どもが大きくなるにつれて、お金もどんどん必要になるだろうから、私がバリバリ働かないとね。お母さんの言う通り、薬剤師の資格を取って本当に良かった。』



『妊娠九ヶ月

 そろそろ産休に突入。一年目の新人が産休を取るなんて前代未聞らしく、職場では腫れ物扱いだけどね。子どもが産まれたら、早く職場復帰して先輩の分まで仕事をこなさないと。


 上司からは無理はしないでと言われているけど、できる限り早く復帰したい意志は伝えている。赤ちゃんは0歳から保育園通いになるけど、早い段階から社会生活に慣れておくのも悪くないかもね。


 私も圭ちゃんも人付き合いは得意ではないけど、この子にはそういう部分は受け継いでほしくないな。


 どちらかといえば、透矢みたいな社交的なタイプに育ってくれたらいいんだけど。いや、あれはあれでいろいろ抱え込んじゃうからダメか……。


 産まれる前からあれこれ期待するのは、赤ちゃんにとって重荷になるよね。ひとまずは元気に生まれて来てくれれば十分だよ。』



『妊娠十ヶ月

 いよいよ臨月。もうすぐ赤ちゃんに会えると思うとドキドキする。でもそれと同じくらい、陣痛への恐怖心がある。大丈夫かな、私。


 とりあえず今できることは、陣痛に向けて体力を温存すること。しっかり食べて、しっかり寝て、元気にその日を迎えられたらいいな。


 圭ちゃんも、もうすぐ父親になるんだね。もしかしたら圭ちゃんは、こんなに早く父親になることは望んでいなかったかもしれない。


 でもね、最近はこれも運命だったと思うようになった。だってお腹にいるこの子は、今の私達を選んできてくれたから。


 二人でちゃんと迎えてあげるから、心配しないでね、赤ちゃん。』



『誕生

 人生でこんなにも充実した日はないと思う。長い陣痛の末、ようやくあなたに会えた時は、一生分の幸福が降り注いだように嬉しかったよ。


 クシャクシャの顔も、痩せっぽっちの腕も、小さな足も、全部が愛おしい。無事に生まれてきてくれて、本当にありがとう。


 朝陽。あなたの名前だよ。


 明け方に生まれたからって、圭ちゃんが名付けてくれたの。とっても素敵な名前だよね。

 これから朝陽と過ごしていく毎日が、私は楽しみでしょうがないんだよ。


 圭ちゃんは、まだ朝陽に触れるのが怖いみたい。生まれてすぐに抱っこを促したけど、断られちゃった。小さくて脆い命が怖くてたまらないんだよね。


 今はまだ怖くて触れられなくても、ゆっくり父親になってくれればいいよ。


 圭ちゃんは、私と結婚する未来も、朝陽の父親になる未来も、本当は望んでいなかったのかもしれない。圭ちゃんは優しいから、私を傷つけるようなことは言わないけど、何となく分かっているんだ。


 圭ちゃんの見据える未来に、私はいない。


 圭ちゃんは自力で夢を見つけて、その夢を本気で叶えようとしている。私がいなくても、圭ちゃんは前へ前へと進んでいく。


 だからね、こうして圭ちゃんの傍にいるのは私の我儘。こんなに重すぎる我儘を受け入れてくれて本当にありがとね。


 私はもう、これ以上は何も望まないよ。だから安心して、圭ちゃんは夢を追いかけてね。


 だけどもし、私に万が一のことがあったら、朝陽が一人で生きていけるまで見守ってあげて欲しい。そんな日が来るなんて思いたくないけど、もしものことがあったらお願いね。


 朝陽の親は、私と圭ちゃんだけだから。』


 日和が書いた記録は、そこで終わっていた。読み終わった後も、日和の筆跡から目が離せなかった。

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